赦せない自分に優しく、正直になる
『奇跡講座』(以後、コース)に書いてあることが、その内容の真髄が、わかるようになればなるほど、その内容を生きることの難しさ、その内容を生きることへの無意識のうちの抵抗、反発に気づく。
そして、まだ、氷山の一角すら、わかっていない(実践的な理解は伴っていない)のだ、、、と、気づく。
『奇跡講座』を独学で読んで、自己流の解釈をして、実はその内容はわかっていなかった時の方が、わかったつもりだった時の方が、自我的には、満足で、もちろん、本来の目的である悟りではなく、自我が望んだ通りの目的である、『奇跡講座』の中の語彙を使って、一喜一憂という自我的な結果が伴う。(あなたはまだ聖霊じゃない、とか、早く聖霊を選び直さなきゃ、とか、聖霊は(物質的にも、精神的にも)全てを与えてくれる、とか、この世界の中でのことも聖霊にお願いすればいい、とか)
そして、そのまま、この世界を現実のものだと思い込む為に、つまり、「この世界はリアルで、実在して、この世界の中に幸せや愛は在って、よって、神は不在である。それこそが!真理である!」という信念を強固に保持する目的で、『奇跡講座』を間違った目的の為に、使い続ける。
ただ、それが悪いということではなく、神、神の愛、ワンネスに近づくこと、悟りへの道は、どんな道であっても、それほど大きな抵抗があり、大なり小なり、そのような自我的なダイナミクスが働いて、そのような心情や行動を、知らず知らずのうちに、無意識のうちに、している、そんなに簡単には赦せない、そんなものなのだ。
ただ、それに今、気づいたならば、今の状態は、心地よくはないし、間違ってはいる、という認識のもとで、ただ、心地よくないはずのこの感情や心境を、私は、好き好んで、選んでいるのだな、と、どこかでは、理論的に理解しつつ、今は、実践は、出来ない、受け入れられない、あの人、あの事、あの状況だけは、赦したくない、咎めていたい、裁いていたい、だけども、今は、それでいいと、自分に限りなく優しく、寄り添う。そして、いつか、赦せるなら、赦したいという、微かな光を失わずに、ただ、その自分を優しく見つめる。
自我からの「愛を求める呼びかけ」を可愛く感じられるようになるまで、この世界レベルの常識的な行動を取りながら、内的には、ただ、ただ、じっとしておく。
赦せない自分に嘘をつくより、赦せた風の過剰に親切で優しい自分を演じるより、そんな自分に気づいて、そんな自分のまま、等身大の自分を、俗のままの自分を、優しく受け入れる事に、寄り添っていくことに、専念する。
そんな時、そこにいる「自分」は、誰なのか?何なのか?
目的さえ、見失わなければ、私は、必ず、最善のタイミングとシチュエーションで、限りなく優しい愛の存在と同一化していきながら、この目的を達成する。