独生独死独去独来

今回は仏教的な話ですね。ただし、自分は仏教徒でもなく、人様に伝えれるほど学んだわけでもありません。それでも感じるところがあったので、書き留めておきます。

定義

こちら、どのように読むかというと「どくしょうどくしどっこどくらい」で、日本っぽく読むとしたら「独り生れ独り死し、独り去り独り来る」ということだそうです。簡単に言ってしまうと、人は生まれる時も独り、死ぬ時も独り、やってくるのも去るのも独りです。というお釈迦様の話です。

解釈(自分的な)

人はよく、「あの人は自分のことを分かってくれない」と思ってしまいます。一方で、それを言っている自分も相手の苦しみ・孤独・辛さ、楽しみでさえも本当の意味では分かっていないでしょう。まさに人は孤独な生き物です。無から生まれ、無へと還る、その間の一瞬を人生と呼び、人生である間は多くの人生に囲まれるため、まるで孤独ではないことが正しく感じてしまいます。

人は、当人の持つ強い信念、思い、記憶、思考や感情などの集合体などにより自我が構成されます。しかし、それらは深い意味では共有できるものでもなく、共感されるものでもありません。だから、分からないことをベースにして、少しでも分かることができたら本当は素晴らしいことではないでしょうか?分からないことに焦点を当てるのではなく、分かることに焦点を当てると見方が変わりませんか?

そう考えると、人は分かり合えない、そこを起点にすると共存するためには、コミュニケーションは絶対的に必要で、決して埋まり切ることのないギャップを少しでも埋めるために行われるものなのでしょう。あの人にはなんでも話せる、どんな感情でも表現できる、と思っているのはまやかしで、そうできる範囲が少し広いだけで、実際には「なんでも」理解されることはないのではないでしょうか?立場や経験が異なれば、ひとつの事実ですら異なって見える。もちろん意見も違ってくる。それらを完全に共有することはできない。それでも、分かりあおうとすることと、少しでも分かったことをプラスに捉えると人生は素敵になるのではないでしょうか。コミュニケーションというのはだからこそとてもとても重要なことです。そして、はじめから分かってくれると勝手に期待し、分かってもらえないことにがっかりするのではなく、少しでも分かることの素晴らしさに光を当ててみましょうよ。

これは自分の解釈であり、かつ自分はお釈迦様の言葉の一部を拾って調べているだけなので、誤りがあるかもしれません。それでも、自分の解釈で腹に落ち、人生が少しでも楽になるのであれば、それでいいと思っています。というわけで、気になる他の言葉についても別途自分の解釈を記載しようと思っています。

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