ネットになると「僕は辞書になる」。
僕は自分の価値観に価値があると思ってる。
って当たり前か。w
みんなそうだよね。
そうだからこそ
もっと認めて欲しいとか、もっと広まって欲しい、もっと共感して欲しい
って気持ちが強くなるんだと思う。
「こんなにいい考えなのに!!」
「これって絶対いいじゃん!!」
と、独りで想いまくってます(笑)
その価値観で実際に人と話すと結構納得してくれたり、評判がいい。
「たしかに!」「そんな深いこと考えてたんだ!」みたいなことも言われる。
でもそんな時ってやっぱりお互い赤裸々に語ってる時なんだよね。そんな時は僕も相手に「たしかに!その気持ちわかるかも!!」とか相手を認める心の余裕が生まれる。
僕はネットではあんまり赤裸々に語れない。
なんでだろう?普通逆っぽいのに(笑)
きっと表現が論理的になってしまいがちなんだと思う。
友達と語ってる時は感情的で、人間味が溢れてる。
人間味に溢れてるとその人の話に納得できなくても「あぁこいつ本気で思ってるんだな」ってのは伝わる。
これがネットを通すとなぜか論理的で説明チックになってしまう。
いわゆる機械的?なんか別に俺じゃなくてもその文章使えば伝わり方一緒。みたいなwww悲しすぎる(笑)
でもホント極端にいうと辞書みたいな感じ。
辞書ってどんな辞書でも書いてあることだいたい一緒じゃん?
その辞書特有の説明の仕方とかないじゃん?みんな一緒!個性なし!
まさにアレだよね。
ネットを通しての表現力?人間味?みたいなのがもっと欲しいな。
ネットでは承認欲求が溢れてる。
僕もその一人で、フォローして欲しいし、いいねされたいし。
noteで言えばスキされたい。
でもそのために、自分を取り繕ってしまう。
いい自分だけを見てほしい、
「この人の考え深い!」って思われたいし、
「おもしろいなこいつ」って思ってほしい。
noteやTwitterやYouTubeを見ると、自分をさらけ出して支持を得てる人がいるけどそういう人に本当に憧れる。
自分も素直に発言して、人間性をもっと評価されたい。
最初ってそんな初対面の人に興味なんてないからやっぱりコンテンツが大事だと思ってる。
でもそのコンテンツがカチカチすぎると辞書みたいになってどのサイトと比べても同じような感じになる。そうなるとそのうちコンテンツとしては価値があるけどそのクリエイターには興味がわかない、みたいなことが起こる。
僕はコンテンツもそうだけどやっぱり自分の価値観を通したクリエイターとしての自分を好きになってもらいたい。
なんかメンヘラみたい(笑)
まぁでも痛いことに本当にそう思ってて
そのうちクリエイター自体がコンテンツになるようになりたいと思ってる。
とこんな感じで思ってるけど
ここまで結構抽象的な話ばかりで「じゃぁお前のその価値観ってなんなの?」となるので
次回の記事は「幸せを決めているのは自分なのか?」ということに
ついて書いていきたいと思います!
ちょっとでも無感情辞書を卒業しよう(゚∀゚)
では