自分を愛そうとする人は、みんなのことも愛せる人だ _ (7)休職中の振り返り _ 不調の原因は仕事とプライベートのコンフリクト、だけではなかった
>> 私のなかでのコンフリクト
お仕事を優先させるとプライベートが犠牲になる。
プライベートを優先させるとお仕事が犠牲になる。
ぼくの人生を構成する、大切でとても大きな要素がコンフリクトしていた。
犠牲になるとしたら、いや、犠牲にするとしたら、
このふたつのいずれかだと思っていた。
もし目の前に体調を崩したわが子がいたら、
いつだってぼくはお仕事をはじめとして
他のことをすべからく犠牲にして子どもの面倒をみるだろうと思う。
でも本当に犠牲になっていたのは、
仕事でも育児でもなく、もっと他のことだったと今では思える。
それは、自分自身の自己基盤だった。
勤務時間中に子守して、睡眠時間に仕事して、
自分のための時間がまったくなかったのだから当然といえば当然のこと。
体調の維持や睡眠時間を確保するための工夫など、
フィジカルのケアや心の疲れのケアをないがしろにしてしまっていた。
それだけではなくて、自分の本意はどこにあって、それはどんなものか。
フィジカルやメンタルのケアに加えて、
自分の土台である一番大切な自己基盤を整えるということについても
いつの間にかないがしろにしてしまっていた。
>> そこに山がそびえていている感覚
ぼくの目の前に、山ができている。
リスケとキャンセルがうず高く積みあがって、山になっている。
そんな気持ちだった。
子どもたちが体調を崩して保育園を休むたびに、急遽子どもたちのために時間をとらなければいけなくて、お仕事の予定についてリスケとキャンセルばっかりしていた。
みんなに「予定しててもらったのにほんとにごめん」とか「何回も何回も予定変えさせてごめん」って謝ってばっかりだった。
20年3月から、お仕事もフルリモートとなって、生活の仕方が大きく変わっていた。
プライベートのタスクとお仕事のタスクが、並列化されて迫ってくる。
以前まではいったん出社してしまえばプライベートのことはできなかったけれど、今となっては会議と会議のあいまにお洗濯を取り込むとか、企画書を作るべきかそれともスーパーに買い出しに行くべきかとか、オンとオフを並列に見て優先順位を考えなくてはならなくなっていた。
特に、子どもたちが体調を崩したときは、他のタスクの優先順位を思いっきり下げなくてはならない。
小児科へ連れて行ったり、おうちで子守しなくてはいけなくなったりして
誰かと約束していた打ち合わせの予定や、期日を含めて申し合わせていた作業の計画など、思い通りに取り組むことができない。
まして、自分の自由時間なんて問答無用で吹き飛ばされていた。
そんな中ではあったけど、得意先との商談の時間だけは、おくさんにお願いして確保させてもらった。
また、病児保育を利用できる日は、限られた時間ではあったけど仕事に向き合うことができた。
考えようによってはフルリモートだからこそ、お仕事を犠牲にしてプライベートを優先させることができた、とも言える。大切なわが子を身近でケアすることができた。子守しながら仕事するなんてことも可能になっていたのだから。
わが子たちの様子を一番近くでずっと見守ることができた。
でも気付かないところで犠牲となっているものがあるとは、この時は自覚できていなかった。
>> 22年2月~5月 子どもたちのぜんそくとコロナ
休職前は、まだまだコロナへの警戒がかなり強いころで、わが子(2人姉妹)の片方が発熱すると、もう片方も登園停止となった。
また、例年のことではあるけど、喘息もちのわが子たちは、季節の変わり目や花粉が飛び交う春先には発作を起こすことが多い。休職前の2月・3月も隔週で長女か次女のどちらかが軽度の発作を起こして、休養や様子を見るために保育園を欠席させた。
そして4月には長女を発端に、家族全員がコロナ陽性となってしまい、発症時期がそれぞれ少しずつずれていたため、合計で20日間くらい自宅で療養することになった。
ぼくは営業チームのマネジャー。ぼくが止まるとメンバーである10人くらいが止まる。10人が止まるとその向こう側にいる代理店の営業たち数百人が止まる。そんな思いで、子もりをしながらもスマホで仕事して、みんなが寝たら必死で作業して明日の業務の土台を整えた。
苦しかったな、今ではそう思うよ。
>> 22年6月 次女の入院 変調のはじまり
子どもたちの、春先のアレルギーを原因とするような体調不良はやっと一息ついたと思ったけど、6月に入って1歳の次女が高熱を出した。咳もとまらない。
夜遅くに、近くの大きな病院へ電話して夜間救急に連れて行った。気管支を拡張するために薬を吸入したり点滴をしたりして様子をみたけど、血中酸素の値が全然改善しなくて入院することとなった。でもそこでは病床があいていなくて、少し離れた大学病院に受け入れてもらうことに。救急車で移動する直前、RSウィルス感染の疑いがあるのでは?と受け入れ先の病院の先生から電話で提起され検査してみたところ、まさに陽性で、喘息の対処をしていたのではまったく軽快しなかったことが分かった。
次女は、ここから1週間にわたって、高熱と戦った。
コロナ禍だったから、ぼくたち両親は限られた数時間しか付き添ってやれなくて
1歳になったばかりなのに、たったひとりで病室で過ごすことになった。
ぼくたちが面会から帰るときにはいつも、さみしくって泣き出した。
ぼくは追いかけてくる泣き声を振り切るようにして病棟を後にした。
家から少し離れた場所にあったから、病院のすぐ横のホテルに部屋をとって、何かあったらすぐに駆けつけられるように待機していた。
これによって長女も登園できなくなって、日中も家で一緒に過ごしたり、元気なんだけど病児保育に行ってもらったりした。長女を病児保育へ迎えに行った帰り道、2人で大回りして次女の病院に寄って、中には入れないから駐車場から窓を見上げた。心配そうにしている長女の顔がいまでも焼き付いている。夜、おうちで3人で食事をして長女が寝たらぼくはホテルに戻った。
先生方やスタッフのみなさんのおかげで、なんとか退院できるめどがたった夜に、ホテルを引き払って21時くらいに自宅に戻った。
それまで無視できていた疲れがほとばしって出てきて、首・肩・背中が砂袋が入っているみたいに重くて息が苦しくなっていた。
>> 変調のはじまり _ 自己基盤の揺らぎ、そして体調への表出
たぶんね、この頃からだと思う。ずっと水の中にいるように感じ始めた。
頭がぼやーっとしていて、どんな感触も鈍い。
それに頭や、首・肩、お腹、背中、ずっと痛い。
ときどき、グラっと大きく揺れるようなめまいが襲ってくる。
夕方になると全部が重くて休憩せずにはいられない。
これを書いている23年8月時点でもまだ勉強中だけど、
いまでは”自己基盤はどうだったのか?”という文脈で当時のことを振り返っている。
この時は自己基盤が相当に揺らいでいて、自己基盤の強さから産まれてくるべき抵抗力がそれまでにないくらい乏しくなっていたんだろう。
うず高く積み上がった未完了のものたち。自分はどうしたいのか、自分の本意の不在。継続し続けるストレス反応。そして睡眠不足をはじめ身体のケア不足による免疫力の低下。
これらによって抵抗力がなくなって、ついにメンタルにもフィジカルにも不調が顕在化することになったのだと感じている。
初めて心療内科の先生に診ていただいたとき、すぐに休むことが必要だということに加えて、とにかく自分のためだけの時間を持つようにと言われた。いまではそれにとても納得を覚えていて、その実践の大切さを痛感している。
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ここまで読んでくれてありがとうございます。
これからこんなふうに続けていこうと思っています。
よければお付き合いください。
・(1)はじめに
・(2)診断・休職まで
・(3)休職のはじまり:しんどいよりも、痛くて重い
・(4)休職のはじまり:感情・思考の記録と、仕事・職場への思い
・(5)休職のはじまり:ぼくの前にも後ろにも
・(6)お仕事でのたくさんのコンフリクトたち
・(7)不調の原因は仕事とプライベートのコンフリクト、
だけではなかった(この記事)
・(8)休職期間中に学んだこと・発火したこと
・(9)最後に