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【前編】東大生の全力・読書感想文 『中動態の世界』 〜中動態の世界と、自由〜

めい🌱
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発信しながら地域に飛び込む現役東大生(休学中)。

2022年3月、
半年間、長野県塩尻市に滞在した体験をまとめた本を出版しました。



前編では、主に『中動態の世界』の要約(のようなもの)を書いています。
かなり、抽象的かつ長文になってしまいましたが、
内容に興味のある方は読んでみてください。

後編では、もう少し易しい言葉で、
私の考えや思いをまとめています。
後編だけでも、ある程度たのしめる文章になっているかとも思います。



00. 『中動態の世界』

こんなにも長い間にわたって、一つの本を読んだのは
これが初めてだったかもしれない。

2022年が明けた1月ごろから

長距離移動のあいまに、
人との待ち合わせ中に、
何かに疲れたときに、
文章に触れたいと思ったときに、

時間を見つけては読み進めてきた本がある。

『中動態の世界』 意志と責任の考古学
國分功一郎・著

この本を先日やっと読み終えた。

正直、書いてあることは簡単ではなくて、
難解なところも、抽象的なところも、専門的なところもたくさんある。

だから、読むのにはすごく時間をかけたし、
読み直した部分も多くあるし、
メモを取ったり調べ物をしたりしながら読んでいた。

そこまでしても、ページをめくり続けようと思う何かが
この本にあることをずっと感じていたし、
必ずこの本の感想文を書こうと、序盤から決めていた。

そして、やっと感想文にとりかかれる。


予防線を張るようだが、
この文章は『中動態の世界』の要約ではない。
あくまでも、私がこの本を読み、私なりに解釈し、私の言葉で感じたことをまとめているだけである。

感想文というのは、そういうものだと、思う。

01. 「中動態」とは何か

a. 簡潔な定義は存在しない

「中動態」とはなにか。

読み始めのころは、
そればかりを問いつづけてこの本と向き合っていた気がする。

そして、この本のことを周りの人たちに紹介するときも、
一番最初にされる質問は、必ずと言っていいほど

中動態って、何??

というものだった。

ただ、この問いに簡潔に答えてくれる文章は、
この本の中には一つも出てこない。

もちろん、曖昧な定義のようなものはいくつか出てくるが、
それには例外や注釈がもれなくついてくる。

いつからだろうか。

「中動態とは何か?」
という問いに対する答えを見つけようとしなくなったとき、
ページをめくる手のリズムが良くなった。
久しぶりに、「学ぶ楽しさ」を純粋に感じた。
黙読しながら、叫び出したくなってしまうような面白さがあった。

そういう意味で、
ここでわかりやすく中動態について説明をするのは
極めて傲慢だし暴力的なことだと思うが、
「中動態の世界」
についての文章を書くにあたって、この言葉について触れないわけにはいかないだろう。

私という一個人の中で解釈されなおされた「中動態」について
決してわかりやすくはない方法で説明してみようと思う。

b. 能動と受動の対比にはまらない態

動詞には、「能動態」と「受動態」の2種類がある、
と「一般的には」言われている。

のうどう【能動】
作用を他におよぼすこと。積極的にはたらきかけること。↔︎受動・所動。
【ーー的】自分からはたらきかけるようす。↔︎受動的・所動的。

小学館 新選国語辞典 新版

じゅどう【受動】
他から動作・作用を受けること。受け身。↔︎能動。
【ーー的】受け身であるようす。↔︎能動的。

小学館 新選国語辞典 新版

学校でもそう教わるし、
普段の生活の中でも、そんな感覚を持っている人は多いと思う。
私自身、「中動態」の考えを知る前は
「能動」と「受動」の対立構造を当たり前のように捉えていた。

「中動態」の考え方は、その対立構造に疑問を投げかける。

一つ注意しなければならないのは、
「中動態」は
「能動でも受動でもない態」でも「能動と受動のあいだの態」でもない
ということだ。

ああ、もうこの時点でなんのこっちゃわからない。

それでも、がんばって読み進めてみる。
すると、こんなにわかに信じがたい表現が出てくるのだ。

その作業は、中動態をそれ単独としてではなくて、
能動態との対立において
定義することを意味する。

第3章 中動態の意味論より

言語学者であり、歴史学者であり、社会学者であり、人類学者であったエミール・バンヴェニストが定義した中動態は、
それまで当たり前と思われていた「能動」対「受動」の構造を超越し、
中動態を能動態と対立させた上で、
能動と中動の対立そのものの意味を改めて定義しようとする。

何を言っているんだろうこの本は。


ちょっと訳がわからなさすぎるので、
具体例を持ってきてみようと思う。

本の中で紹介されているのは、「歩く」という動詞である。
ここで提示されている疑問は、

「歩く」と「私において歩行が実現されている」はどう違うのか?

というものである。

「私が何ごとかをなす」
という表現は、「私」の意志を感じさせる。
しかし、本当にそうだろうか??

「私が歩く」とき、
「私」は意志を持って、歩行に関わる何百もの骨や関節を動かそうとしているだろうか?
そもそも、歩き出すにあたって「歩こう」という明確な意志を持っているだろうか?

そんなに事態は簡単ではないだろう。
そこに、明確な意志があるとは容易には言い難い。

ではここで、「私が歩く」という状態は、
果たして「能動的」であるだろうか?

「私が歩く」という文章において、「歩く」という動詞は「能動態」だというように捉えられる。
より正確にいうならば、「能動態」だと捉えるより他に方法がない、と思われている、という感じだろうか。

しかし、上記のように私の「意志」を考えた場合、
この行為は「能動的」であるだろうか?

「私が歩く」
という表現ではなく、
「私の元で歩行が実現されている」
と表現されるべきではないだろうか?

こうなった場合、「歩く」というのは能動態だと言い切れる自信がなくなってくる。

しかし、この行為が「受動的だ」というのはいささか強引な話である。
「私が歩く」と「私が歩かされている」が同じ行為だとは言い難い。

このように、
「能動」対「受動」の構造は、
すべての行為を「する」か「される」の対立の中に組み込もうとするが、
この対立構造では十分に説明できない行為がある。

しかも、そのような行為は世界に溢れており、
私たちが日常的に行っている「歩く」という行為でさえも
能動と受動の対立の中に組み込むことが難しかった。


けっきょくのところ何が言いたいのかというと、

「能動」対「受動」の対立だけでこの世界を区別することはできず、
この構造とはちがう視点をもって行為を捉える必要があり、
それを考えるヒントの一つとして「意志」がある

ということである。


c. 内にあるか? 外にあるか?

もうすでに、置いてきぼりにされているような感があるが、
まだ本の1/4程度である。

まだ1/4、と感じるかもしれないが、
ここまででもかなり大胆に、かなり大幅に説明を省いている
とにかく乱雑なまとめだということを改めて認識していただきたい。
(痛切に)


「能動」対「中動」という新しい対立構造の可能性が提示された段階で、
この本の中でも珍しく、端的に結論が述べられた文章がある。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。
それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

第3章 中動態の意味論

ここでも具体例を挙げてみたい。

能動態のみを取るもの→「曲げる」「与える」…
中動態のみを取るもの→「生まれる」「寝ている」…

能動態で示される過程は、主体から発して、主体の外で完遂するものであり、
中動態で示される過程においては、主語はその行為者であると同時に中心であり、主体自らがその過程の内部にいる。

能動と受動の対立においては、「する」と「される」の対立により意志の概念を強く想起させるが、
ここに中動態の考えを取り入れることで、この対立を相対化することができる。
中動態の世界においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであり、意志は問題にならないのだ。

02. 言語の歴史を遡る

言語は、絶えず変化している。
そしてその変化には、少なからず人々の思考の変化が反映されるし、
人々の思考の変化には、言語の変化が反映される。

「中動態」をめぐる世界を考える中で、
この本の中盤で言語の歴史をたどることになる。

辿るというよりも駆け抜けることになるだろうが、
この点においてもまとめてみようと思う。

くどいようだが、
このまとめは、あくまでも私を通した私なりの解釈である。
そしてそれを読んだ人の解釈も、人によってさまざまであることも、
とても大切なこととして認識すべきなのかな、と思う。


a. 動詞は遅れて生じた

見出しから既に訳がわからない。

が、我慢強く考えてみることにする。
この本を読んでいるときは、もうそんなことばかりだ。
でもなんだか読んでしまう。


ここで参考にされているのはラテン語だ。
言語学者らによる研究によって
動詞は、言語の中ではかなり遅れて生じた要素だ、ということがわかっているらしい。

動詞が登場する先に、「名詞的構文」があったというのである。

動詞とは発達した名詞である。

第6章 言語の歴史

動作を表す抽象名詞によって文章が形成されていた時代があり、
そこから、最終的には動詞は名詞から切り離された。

It rains.
という文章を思い出してみてほしい。

これは、「雨が降る」と訳される英語であるが、
いわゆる主語は「it」、この文章は非人称構文と呼ばれている。

英語を勉強する際に、この構文はなんだか例外のように思えてしまうが、
言語の歴史を考えると、むしろこれは動詞の起源的な使われ方だという。


b. 名詞から発達した動詞

名詞の一部としての「動作名詞」がたどった歴史を憶測すると、
・動作を示すことを担っていた動作名詞が
・名詞から区別されるようになり
・まずは単に動作や出来事だけを表示する動詞が生まれた
と言えるそうだ。

「動作や出来事だけを表示する動詞」とは、
行為者を示すことなく、出来事のみを示す動詞
のことである。

つまり、初期の動詞では、
それが示す行為の主体を問題としていなかった。

c. 人称を獲得した動詞

ここで、先にあげた中動態における
「内にあるか? 外にあるか?」
という捉え方を思い出してみると、

のちに動詞が人称(主語)を獲得した際も、
その行為者が動作プロセスの内側にいるのか外側にいるのか、
が問われるにすぎなかった、と考えることができる。

しかし、その後次第に、
動詞は行為者との結びつきを強めていく。

ここに「能動態」と「受動態」の対立構造が明確化していくことによって、
行為者が動作の内側にいるのか外側にいるのかということよりも、
その行為者が自らの「意志」で行為したかどうかが問われるようになったのである。

03. 意志とは何か?

さて、ここまで「中動態」という耳馴染みの薄いことばについて
曖昧ではあるが、その定義や言語の歴史について考えてきた。

そこで、なんの定義もすることなく
しれっと使っていた「意志」ということば。

このことばについては、より深く考察していかなければならないだろう。

なんと言っても、この本の副題は
「意志と責任の考古学」
である。

「意志」と「責任」という言葉を
ざっくりとしたイメージだけで使うことはできないだろう。

a. 「意志」と「選択」はちがう

まず、ドイツの哲学者・思想家である
ハンナ・アレントによる「意志」についての考察が紹介される。

ここにも、非常に丁寧で細かい説明がなされているが、
今回は、ここでは割愛し、結論のようなものだけまとめようと思う。

アレントによると、

選択は過去からの帰結としてある。
意志はものごとの絶対的な始まりである。
そして、意志と選択は明確に区別されねばならない。

選択は、この世界に満ち溢れている事実である。
本にも出てくる例であるが、一つ具体的に考えてみよう。

例えば、「りんごを食べる」という行為について考えてみる。
これは、行為者による「選択」である。

「りんごを食べる」という行為がなされるまでには、
いくらか過去からの影響を受けているからだ。

その行為者は、過去にりんごを食べたことがあるか、
もしくはりんごを食べる人を見たことがあるかして、
「りんごは食べることができる」
ということを知っていたに違いない。

もしくは、赤くて丸くて木になっている物体を見て、
「あれは食べられそうだ」
と判断するに至るような経験を積んでいたに違いない。

そんな数々の過去の出来事の影響を受けて
「りんごを食べる」という行為が「選択されている」。

それに対して、
「意志」を「開始する能力」と定義し、
過去から切り離された絶対的なはじまりを問うのである。

しかし、りんごの例で考えたように、
「意志」の持つ絶対的なはじまりなどありえない。

「意志」の厳格な定義を示すことにより、
アレントはこの矛盾を鮮やかに示し、
意志が存在し得ないことを自身で証明してしまうのである。

b. 意志することは忘れること

この本ではさらに、ハイデッガーによる意志批判が紹介される。

意志することは忘れようとすること

第7章 中動態、放下、出来事 ーー ハイデッガー、ドゥルーズ

だというのである。

上にも書いたように、「意志」はものごとの絶対的な始まりでないといけない。
しかし、その絶対的なはじまりというものも存在し得ない。

にもかかわらず「意志」なるものを求めるならば、
過ぎ去ったもの、すなわち過去を放棄するほかない。

ハイデッガーは、能動と受動の対立構造に、意志の概念を強くみる。
その上で、新たに
「放下」
という概念を導入し、それを「能動性と受動性の区別の外部に横たわっているもの」としてみるのだ。

つまり、「放下」なるものを意志の領域の外部にあるというのである。
ここに、「中動態」の考え方を連想させるものがある。

ただ、この「放下」という言葉も説明が非常に難しく、
正直、私自身の中でうまく消化しきれていない部分が大きいので、
ここでは言葉の紹介にとどめようと思う。

04. 「内在原因」に迫る

この本の中で特に重点を置いて語られている哲学者の一人が、
スピノザである。

「中動態」という態について、
言語の歴史について
「意志」の概念について、
詳細な考察を経てクライマックスに置かれるのが、
スピノザの哲学である。

a. 神に他動詞はない

いきなり「神」とは何ごとか

そう思ってしまう自分も確かにいるのだが、
それはそれとして読み進めてみよう。

スピノザによる哲学書『エチカ』において、非常に重要な概念に
「内在原因」というものがある。

『エチカ』の体系の出発点には、神なる実体があり、
その神と万物との関係を定義するのがこの「内在原因」というものらしい。

スピノザによると、
「神なる実体」とは、この宇宙あるいは自然そのものであり、
万物は神の一部であり神の内にある。

神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。

第8章 中動態と自由の哲学 ーー スピノザ

つまりは、神に他動詞はないのである。
そして、そのような神を表す概念として「内在原因」がある。

b. 「表現」「変状」「様態」

そして、内在原因である神は唯一の「実体」であり、
万物はそれが「変状」して存在する「様態」であるという。

「内在原因」は、それが「変状」して存在する「様態」の中で
自らを「表現」する。

たとえば、道端にさく花として、
たとえば、川に流れる水として、
たとえば、あるところに人間として、
神は存在するのである。

c. 中動態の世界

そのような意味において、
神には受動はありえない。

神の外側には何もない

第8章 中動態と自由の哲学 ーー スピノザ

からである。

確かに、「変状」という過程において神は刺激や影響を受けるが、
それは神自身によって発せられたものである。

つまり、神は自身を刺激し、自身によって刺激されている。

ここで、「する」「される」という表現があまり適切ではないことに気づく。
より正確に表現するならば、神はそうした状態に「なる」のである。

これは、まさしく中動態によって捉えられる世界の見方ではないだろうか。
スピノザによって描かれる世界は、中動態の世界であり、
中動態だけがある世界である。

内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。

第8章 中動態と自由の哲学 ーー スピノザ

d. 2種類の「変状」

ここで、改めて「変状」という概念について考えていくと、
「変状」には2種類あることがわかる。

一つ目が、神という唯一の実態が「様態」として現れる過程。
実体が、ある性質や形態を帯びることである。

この場合、あらゆる変状の原因は神である。

二つ目が、様態そのものに起こる変化。
これは、他の様態によってもたらされる刺激や影響によって、その様態が一定の状態を呈することである。

太陽の光を浴びると熱を感じる。
雨が降ると植物が育つ。
人に優しくされると嬉しくなる。

個物は絶えず他の個物から刺激や影響を受けながら存在しているということである。

第8章 中動態と自由の哲学 ーー スピノザ

後者の「変状」を、この本では「二次的な変状」というように表現されている。

ここで一つ矛盾点が明らかになる。
一つ目の「変状」において、あらゆる様態は能動である。
しかし、二つ目の「変状」、つまり二次的な変状においては、全てが受動に思えてくる
というところである。

しかし『エチカ』においては、
能動こそ目指すべき状態であり、受動は退けられるべき状態とされている。

ここで、もう一度「能動」と「受動」の対立について
考えてみようというのである。

e. 「変状」は中動的か

上記において、「二次的な変状」が受動的に思えてくるという表現を用いたが、
もう一度、その「二次的な変状」のプロセスについて詳しく考えてみる。

すると、「二次的な変状」において二つの段階がある
というように捉えることができる。

一つ目が、外部の原因が様態に作用する段階で、
二つ目が、様態において変状の過程が始まる段階である。

そして、この二つ目の段階は、実に「中動態的」である。
(このnoteの「01-c. 内にあるか? 外にあるか?」参照)

ちがう表現をすると、
私たちは「外部の原因」によって直接的に行為「させられている」のではなく、
さまざまな作用を受ける中で、それらの影響を少しずつ受けながら、
最終的に「私」という様態を座として行為「する」のである。

能動と受動の対立構造においては受動的とみなされてしまう
「二次的な変状」も、
そのプロセスを分解してみていくと「中動的」なのである。

f. 変状する「能力」

ここに、スピノザは様態の「本質」をみる。

これまでの議論から、
様態は外部からの刺激を受けつづけるにもかかわらず、
その変状は必ずしも受動的ではないということがわかった。

ここで注目すべきは、
外部の原因が、それだけで私たちの行為を規定することはないということである。

同じ刺激を受けても、
個体が変われば、結果として現れる行為は異なるし、
同じ個体でも、時と場合によって次の行為は変わってくる。

この事実から想像されるのが、私たち様態の「変状する能力」である。
様態はそれぞれ異なる能力を持ち、時と場合によって異なる能力を持つ。

この能力こそ、スピノザが考える「本質」ではないかと
この本では述べられている。
そしてこの「本質」は力動的な概念であり、
柔軟・流動的・具体的である。

g. 純な能動・純な受動

スピノザの考える「能動」は、
様態への外部からの刺激に依存し、また、その様態の能力に依存する。

そう言った意味で、私たちは100%能動ではありえない。
どれだけ能動的に見えようにも、完全なる能動になることはできない。

しかし、受動を減らし、能動を増やすことはできる。
そのような考え方を持って、「能動」を目指すべきとスピノザは述べている。

私は、このような考え方に
アレントらによる「意志批判」が重なってくるように感じた。

05. 自由について

だんだん頭が痛くなってくるが、
この辺りで本の最後のページも見えてくる。
あともう少し。

私の行為や思考が、私の力としての本質によって説明されうるとき、それらは能動的である。

第8章 中動態と自由の哲学 ーー スピノザ

このような文脈においての「能動」という言葉だが、
スピノザの哲学にはそれに換わる言葉があるという。

それが、「自由」であり、その対義語としての「強制」である。


a. 自由は認識によってもたらされる

自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である

『エチカ』第一部定義7

この表現において、必然は自由と共存する。

外部の刺激を受けながら、自らの必然的な法則を認識し、
その上で自らの「本質」を表現するとき、私たちは「自由」なのである。

逆に、自由と対立するのは「強制」である。
私たちが自由になれないときとは、
自らの必然的な法則を踏みにじられているときだ。
そして、この自由と強制との差は、「変状の質の差」として現れる。

b. 自由へ近づく


繰り返すが、外部からの刺激を絶えず受けている私たちは
完全に自由になることができない。
それは同時に、完全に強制された状態にもならないということでもある。

そして、この本は以下のように締め括られる。

たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。
そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。
これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。

第9章 ビリーたちの物語




しつこく繰り返すが、
以上は『中動態の世界』を読んだ上で、その内容を私が解釈し、私のことばでまとめ直したものである。

そして、まとめるにあたって、詳細な説明や論理を大幅に省略している。
それでも、この内容を「わかりやすく」まとめるなんてことは
やっぱり不可能だったかと、のほほんと思っている私がいるが、
まあ、そんなもんだ。

ここまで大量の言葉を紡ぎ、
長い時間をかけて文章を書いておきながら、
本当に私が文章にしたいのは「この先」のこと、この本を受けて私が感じたこと・考えたことの、より具体的な羅列である。

だが、想像以上に膨大な量になってしまったので、
ここで一度、区切りを入れたいと思う。

もし、この先も読んでみたいなんて物好きな方がいたとしたら、
以下から次の投稿に移ってみてほしい。

本編はここから、という感じなのだが、
こんな最後に書いてもしょうがないのかもしれない(笑)。


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