私が桜と仲直りをするまで
本日、都内は花散らしの雨。
これを機に1年ほど下書きに眠っていたこの話を書き切りたい。
30年ばかし生きてきたが、桜というものが好きではなかった。
「なぜ?」といろんな人に聞かれるし、それなりに納得感のある理由はいくつかあった。けど、それらの理由が桜をここまで毛嫌いするほどの理由ではないような気がしていて、実は自分自身、ずっと不思議に思っていた。
それがやっとここ1-2年で氷解した。
桜が好きじゃなかったのは、表面的な理由に隠れて別のところに本当の理由があったから。これはそれに気づいた話。
まずは本当の理由を覆い隠していた表面的な理由から。
表面的な理由①人の多さ
桜を愛でる心は日本人のDNAに組み込まれているのだろうか、開花宣言と同時に押し寄せる人波。写真を取ろうにも必ず入り込む誰かの頭頂部。人が入らないようにと頑張るほど、人が入った写真になってしまう。人のいない、いい感じの写真を撮るなんて早朝ダッシュをするかアクロバティックな姿勢でないと到底無理。
最後は花を見に来ているのか人を見に来ているのか分からなくなり、お茶するところを探そうにも見つからず、帰る頃には人酔いし、ぐったりしてしまう。
表面的な理由②やりすぎ
3月に入れば所狭しと並べられる薄桃色のありとあらゆる商品は、12月になると流れるマライア・キャリーのAll I want for Christmas is you並に季節の風物詩となり、何年間も商業的に利用されすぎて食傷気味になっている。しかもここ数年はSNSの影響か、映えるからと言って商業味が加速しすぎてないか?
桜の色やフォルムが可愛いのはわかる。けど、毎年ほぼ同じやん、とつっこみたくなるのは私だけだろうか。。。
表面的な理由③寒い
花見ならいいじゃん、という友人たちもいる。分からなくもない。
でも冷静に思い出してほしい。
日中のうららかな陽気のままに春の装いで花見に行くと、外は思ったよりも寒くて、地面もこの時期特有の春時雨のせいでぬかるんでいたり冷え切っていたり。その結果、ほんの少し外でお花見をした次の日は風邪を引く羽目になった経験はないだろうか。
あるよね?
❖
表面的な理由をいくつか挙げたけど、ある程度の納得感は得られると思う。私も数年前まではこれが本心だと思ってた。
でもそうじゃなかった。
本当の理由
春は出会いと別れの季節とはよく言ったものだ。出会いと別れの感情が同じぐらいの分量ならば、そういう風に言えたのかもしれない。
桜のない地域で育った私が初めて桜と過ごした春は、10年住んだアメリカから日本へ引越しをした直後。全く知らない人と土地の中で過ごす春は、10代の思春期真っ只中の私にはハードだった。新しい環境でも大丈夫なフリをしていたけど、学校が終わった後、毎日部屋で泣いていた。誰にも言えずに。
だから春は、友人や住む場所や学校や、自分が今まで築いたものが無理やり一掃され、ゼロからスタートしないといけない経験と強くリンクしていた。それでも日々は進んでいくから「新しい環境でやっていかないといけない」という使命感で必死に悲しみを上塗りしていたんだと思う。
だから春は悲しみで溢れていて、春と同義語である桜もまた然りだった。
塗り込められた感情にずっと気づかずに、いや、気づかないようにしていたんだろう。意外に子供の頃の傷は深かったんだなって、大人になってから気づく。
大丈夫じゃなかった。本当に悲しかったんだ、私。
春は、桜は、別れの名残、だった。
そして、いま
それから15年ちょっとが経ち、1年半ほど前にに引っ越しをした。
新しい家に近くには大きな公園があって、ぐるりと木に囲まれた広場があった。1年ほど前の朝、私は散歩をしていた。小道を歩き、左に曲がってその広場に出たら、思わず目を細めるくらい、急に世界が明るくなった。
白色に近い淡いグレーの空の下に、同じく白色に近いうっすら桃色を孕んだ靄ようなものが浮かんでいた。薄曇り越しのわずかな陽の光に鈍く照らされた桜だった。思わず息を飲んだ。
美しいと思った。
私なんでこれ好きじゃないんだっけ?
よくわからなくなった。
だから花が咲いているうちは時間を見つけてはその広場のベンチに座ってみるようにした。何がこんなに人を惹きつけるのか。なぜ私が桜と仲良くできないか。
❖
花の下には様々な年代の人がやってくる。
新しいランドセルを背負った女の子。そのピカピカの姿の後ろに桜が入るように下からカメラを構えて写真を取るパパ。そしてその後みんな並んで、タイマーで集合写真を取っているご家族。
赤ちゃんを乗せたベビーカーを巧妙に設置し、他の花見客が入らないようにするママ。無垢に笑う赤ちゃんとその後ろの花霞を嬉しそうに撮るママとおばあちゃま。
低く垂れ下がる枝の下にコールマンのデッキチェアを2つ並べて座る初老の夫婦。リクライニングを倒して、手を繋ぎながら。
どれもが愛の瞬間だった。
その姿を見てるだけで、すごくあたたかい気持ちになった。
この人達にとってこの花は幸せな思い出として残るんだな、と思うと
他人事なのになぜか嬉しくて。
なにかがストンと、落ちた。
この花を見ながら、あの時お花見したね、とか写真撮ったね、とかそうやって桜が愛おしい記憶として、人々の幸せな記憶として残るんだ。
私にとって桜は悲しいことを思い出させるもので、しかもその悲しみをしっかり受け止めてあげられなくて、それがひねくれた結果、春が、桜が嫌いになってしまったんだな、と。
そんなことに気づくのに思ったより時間がかかってしまった。
❖
この時期はやっぱり寒いし、陳列棚にあふれる薄桃色は変わらない。
でも、春にも、桜にもなんの罪もなかった。
今まで嫌いだなんて言ってごめんね。
だから今年は、罪滅しではないけれど、暇を見つけては花を見に通った。
ああ、美しいなぁと思った。
そんな今年の春の始まりだった。
書き終えてから
このnoteを書きながら母にダメ元でLINEした
「ねぇ、私が小さい時に桜と一緒に撮った写真ってあるかな?」
「どうだろ、昔はスマホもなかったし。探してみるわ」と母。
まぁそうだよね、当時は写真はカメラで撮るものだったし。
20分後、母から返事があった。
そこには桜をバックにした2枚の写真。
日本に住んでいた頃の、私の保育園の写真。
一枚は近所に住んでた同い年の女の子と。もう一枚は母と。
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