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感覚の根っこ

30年ぶりにUターンで生まれたところに戻ってきて、何度か郷愁めいた思い出話を書いた。

味覚をはじめ、生活に使う主たる感覚は郷土に紐付いているんだなと、帰って暮らしてみて改めて感じる。
東京で暮らして、30年もいたからあらゆることに慣れたし、郷土の味や風土を求める気持ちも薄らいていたから、戻ってきて感じるこのストライク感に驚いている。

ちょっと話が逸れるけど、有名なスターの2世が取り沙汰されることがあるけど、そのスターに求めることが明確であればあるほど、「似ていること」が逆に苛立ちのような摩擦を作る感覚がある。
一見シード権のようだけど、実は超えられない壁の前に立たされるような感じなのかもしれないなと思ったりする。

これと似た現象で、あの店のあのステーキ食べたいなって思うけど「あの店」に行けない時、近場で似たようなものを食べて美味しくなかったら、それを口にする前よりももっとあのステーキ食べたい!ってなることがある。

ストライクかアウトかって、自分で思ってるよりも体が求めることで、案外コントロール不能なんじゃないかと思う。そのことを、故郷に戻って思い知っている。
東京に慣れただけで、慣れただけだったという事実に。食に関しては、東京に住んでいる間ずっと、ストライクの周りをぐるぐる回っていただけだったよう。
30年かけて、徐々に食事への熱意を失っていたことに気がついた。

だから帰ってきてからはよく料理するようになった。家庭で作るレシピは固定化、簡素化され続けていたけど、故郷に戻ったら自然とレシピが増え続けている。

これは「好き」が何かを思い出す作業。
私はこれが好きだったんだと思い出すと、嫌いと好きの境界線がはっきりしてきて、自分自身が何者なのかが定まっていく感じがする。
食べ物のことを書いたけど、それ以外のあらゆるジャンルでもう一度自分の体の求めるストライクゾーンに向き合う日々だ。
嫌いが増えて、好きがわからなくなってくのをとめて、好きが際立ち、嫌いも知っている状態へ。

輪郭のぼやけた自分は、まぁこれでもいいか、から始まるんだとわかってきた。この日々の感覚を整える作業のおかげで、描く絵もだんだんに迷いが消えてきている。

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