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紙包み - ある印刷所の夜 -

  きゅ、しゅる、とん
  きゅ、しゅる、とん

  がらんとした作業場に生まれては、壁に行きつく前に消えていく、かすかな音の連なり。単調な繰り返しであるはずのそれはどこか楽し気で、明らかに喜びをのせた少年の鼻歌に寄り添い、インキと揮発油の匂いのこもる中に静かに響いていた。
  ランプの灯りがちろちろと揺れ、慣れた手つきで活字をぬぐっては盆に置いていく少年を照らしている。その影は暗がりに浮かぶ印刷機に届き、突き出た木製の把手ハンドルをゆらゆらと撫でていた。
  私はたぶん、首の痛みで目を覚ましたのだ。デスクの椅子に体を預け、頭をがっくりと垂らして寝ていたらしい。

  きゅ、しゅる、とん
  きゅ、しゅる、とん

  しばらくそれを眺めていたが、偏った姿勢を支えていた腰からの不平いたみがようやっと頭に届き、私は身じろぎをした。ぎぃ、と予想外に大きくきしんだ椅子の悲鳴は、少年の肩をびくりとすくませ、しゅる、のところで手を止めさせ、鼻歌までも止めてしまった。
  マルコはこちらを振り向いて、笑った。インキを溶かしたような黒い瞳が、ランプの灯りにちかりと光った。

「旦那、良く寝てましたね」
「ああ、首が痛くてかなわんよ。皆は酒場かい」
  ここの職人には行きつけの酒場があり、仕事の後は酒盛りと決まっていた。マルコは、周りの男たちから学んだであろう大人びた苦笑いをしてみせる。
「はい。親方がどうしても、ヨーゼフさんとマーリアの間を取り持ちたい、って」
  ははぁ、あの娘か。春から酒場で働き始めた売り子にヨーゼフが執心しているのは、皆の知るところだった。
「ペーター爺はどこまでも親方肌だな。あいつらしい。それにしても、」
  そこで句を継ぎあぐねて言葉を切ると、きゅ、しゅる、とん、に戻っていたマルコは首をかしげてこちらを見た。
「その、なんだ。お前はひとり残されて片付けをしているのだろう?なんでまた、そんなに嬉しそうにしているんだ?鼻歌なんぞ歌って」
  マルコの目が見開かれた。黒い瞳がちかちかと輝く。何だろう。何かがはち切れそうな――
  するとせきを切ったように、興奮にふるえんばかりの言葉がどっ、と押し寄せてきた。
「はい、俺、その、嬉しいんです!この仕事ができて!ルター先生のドイツ語聖書の印刷。聖書がドイツ語で、みんなの手に渡るんです。
  ミサでうにゃうにゃラテン語知らない言葉で聞かされたアレじゃあなくて、俺らが話す言葉で書いてある、神のことばが。そうです旦那、俺、神のことばを俺、本にしてるんですよ!いや、ただの小間使いだけど。でもやっぱり、すげえ。俺もう、嬉しくって」
  私はその勢いに圧倒され、目の前で喜びに溢れる少年に対する、不可思議な感情をおぼえた。なぜだろう、胸がもやもやとする。

  私は椅子に座り直して、マルコの喜びを後ろになした。
「ふむ、新約聖書しんやくせいしょねぇ……。5年かそこら前には免罪符めんざいふも刷ったし、私にとっては同じ、紙にインキで文字を刷り込んだものでしかないんだが。向かいの店のユダヤ人は、新約聖書は彼らの経典に勝手につけた後書きだ、なんて言っていたっけ」
  私が冷や水のように放った言葉は、しかし、マルコの喜びの炎をちら、とも鎮めることはできなかった。彼はその黒い瞳に、いつもの彼には似合わぬ理知的な光を宿し、どこか教師のような顔をして答えた。
「イェズスは、旧約聖書きゅうやくせいしょに約束された救い主ですよ。すべての人の罪をゆるして救い出す、救い主です。
それも、偉い学者がどれだけ頭を並べて旧約聖書それを読み込んでも誰にも思いつかなかった方法で、でも、これ以上ないほど約束のことば通りの方として、世に来られたんです。〈目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった。〉ルター先生の受け売りですが」
  私は、どうにかしてマルコを止めたくなった。それで言った。
「しかし、お前みたいな子どもに、ゆるされねばならない重い罪などないだろうに」

  ぴしり、とマルコの瞳が凍った、ように見えた。
  彼は乗り出していた体を引っ込め、ゆっくりと、胸に手を当てた。指先から根本までがインキに染まった、それはまだ線の細い、けれども一端いっぱしの、印刷職人の手だった。マルコは口だけを動かしてぶつぶつと何か言っていたが(祈っていたのかもしれない)、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「俺、小さい頃に道端で、すげえ腹減ってて」
  マルコが幼いとき物乞ものごいだったことは知っている。ペーター爺が彼をしばらく家に置き、仕事ができる歳になってからは、この印刷所で雇ったのだ。
「腹が減りすぎて、目が回りそうでした。そしたら、目の前で金持ちが、他の子どもに紙包みを渡したんです。俺、どうしてもそれが食いたくて。食べ物だ、って思って。金持ちが行ってから、その子を突き飛ばしてそれを奪いました。その子はどこかに頭をぶつけて、嫌な音がして」
  何だ、何か引っかかる。紙包み?
「俺は夢中で逃げました。逃げて、路地裏で紙包みを開けてみたら、乾いた鳥の骨が、入ってて」
  乾いた鳥の骨!
「全然、食えなくて。あぁ馬鹿だった、あの子に悪かったと思って戻ったけど、もうそれっきり、その子を見かけることは無かったです。ううん、これだけじゃないんです、何ていうか――」
  マルコは言葉を探すように天井を仰ぎ、しばらく瞳をうろうろと彷徨さまよわせてから、あぁ、と納得した風で私に目を戻し、こう言った。
「俺は、俺自身をぜんぶゆるされたい、と思ったんです。どうしたらいいか分からなかったけど、親方の家に来た人からルター先生の話を聞いて、集会に行きました。それで、イェズスに会ったんです」
「会った?イェズスが居たっていうのか」
「いいえ。でも俺、会いました。俺はその時、俺をゆるすために、身代わりに十字架に架かってくれたイェズスが俺の救い主だって、信じたんです。
〈我らへの愛をもて 子なる神イェズスは
 天よりくだり 人となられた
 完全なまったきいけにえとして すべての人の罪を負い
 十字架に架かられ
 父なる神に すべての人の ”罪 そのもの” とみなされた
 ああ 父なる神より ただひとり見捨てられ
 その身とたましいに 神の怒りを 余すところなく受けられ
 そのいのちにより すべての代償だいしょうを支払われ
 あがないを成し遂げられた方 我が救い主 イェズス〉......、
――俺が好きな讃美歌です。歌、下手ですみません。でも、
この方によって、俺はすべてゆるされたと、信じたんです」

  私の胸をもやもやとにごしていた感情は、やにわに、こみ上げるような衝動に呑み込まれた。
「それは私だ」
  え、とマルコがいぶかる。私は突き動かされるままに続けた。その衝動を言葉にするなら――あぁ、『ゆるされたい』だ。
「その紙包みは、私の上着に入っていたゴミだった。食べた後の骨を、刷り損ねた紙切れに包んで忘れていたのを見つけて、目の前の物乞いの子どもに渡したのだ。それは私だ。その子どもを馬鹿にし、怪我けがをさせ、お前にそれをさせたのは私だ。私が悪かった。すまなかった」
  一気に吐き出した。マルコの目を見ることはできなかった。

  しばらくの間があった。視界の端で、マルコはじっと立っていた。
  しかし、その小さな人影はおもむろに、胸に置いていた手をもう一方の手に握った布切れに差し入れ、中から鈍く光る活字を取り出して、盆の上に置いた。
  しゅる、とん。
「分かりました。言ってくれて、ありがとうございます」
  私は思わず顔を上げた。少年の黒い瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「俺がゆるされたように、旦那もイェズスの赦しを受け取ってください。俺はもう赦してます。でも、俺からよりも、神さまから赦されてください」
「ああ、正直、私はゆるされたい。でも、私はイェズスのことはまるで知らないのだ。そんなことでは、」
  狼狽うろたえる私を、少年は悪戯いたずらっぽく見てから、作業場の奥を指さして言った。
「聖書を読めばいいんです。そこに書いてありますよ。そこでお会いできます、イェズスに」
  いやしかし、と言いかけた私は、戸に近づく足音に気づいて口をつぐんだ。

  じゃ、じゃり、じゃりじゃりばたん!
  作業場の扉が勢いよく押し開けられ、酔いの回った若者がなだれ込んできた。ヨーゼフだ。
  ヨーゼフは寄りかかるようにして扉を閉めると、ランプのそばにいた少年に目をやるなり、マルコぉぉぉ、と駆け寄ってがっちりと抱きついた。マルコは目を白黒させる。夜の通りを吹く風と酒の匂いが作業場の空気をかき回し、私の頬髯ほおひげをかすめていった。
「ヨーゼフさん!どうしたの」
「おれ、おれ、マーリアに言ったんだ。結婚してくれないかって。そしたら、良いわって」
「え、わぁ!おめでとう!よかっ」
  ヨーゼフは抱きついた反動のように勢いよくマルコを離し、そばの椅子にどっかりと座った。
「お前が祈ってくれたから、勇気が出たんだ。おれ、マーリアに、お前に見せたアレ、端紙で包んだ髪飾りをさ、渡せたんだよ。でも最初、あの子は何か怖がってるみたいに見えた。開けて中身を見てくれ、って言ったら、やっと開いてくれて。きれい、って言って笑ったよ。本当に可愛かった。だからおれ、お前もきれいだからすごく似合うよ、って言ったんだ。そしたらさ、マーリアが泣きだして、おれ、びっくりして」
「泣いたの?嬉し泣きでしょ?」
  マルコの問いに、ヨーゼフは首を振った。
「いいや。なんでも、子どもの頃に紙包みを誰かに貰ったらしいんだけど、物乞いの子どもに突き飛ばされて奪われて、彼女の顔のあざも、そのときにできたんだそうだ」
  マルコの体がこわばったのが、背中からでも分かった。
「紙包みはそれを思い出すから怖かった、って泣いたんだ。でも、こんな嬉しい贈り物を貰えたから、今日からはもう怖くないわって、笑ってくれたのがもう、すごく嬉しくてさ。あれ?それじゃ嬉し泣きってことかな、まあいいや」
  マルコの背中から、ふにゃり、と力が抜けた。ヨーゼフは饒舌じょうぜつに続けた。喜びと酒は最高の潤滑油だ。
「おれ、言ったんだ。そのあざのおかげで、こんなに可愛い人が、誰のものにもならずに、おれに会うまでひとりでいてくれたんだ。おれと結婚してくれないか、って。思い切ってさ。そうしたらマーリアは、良いわ、この痣のおかげで、あんたみたいな優しい人に会えたのね。それに、この痣のおかげで、路地で暮らした間も気味悪がられて、目を付けられずに守られたのよ。感謝しなきゃね。そう言ってた。いい子だろ。おれの嫁だぜ、いい子だよなぁ」
  マルコはゆっくりと、私のほうを振り向いた。黒い瞳が、光る涙に浸っているのが見て取れた。
  マルコの視線をたどって私を見つけたヨーゼフは、椅子から転げ落ちんばかりに驚いて言った。
「うわ、旦那!いたんですか!すみませんです、こんなに騒いで」
  私は軋む椅子から立ち上がり、ランプの灯りの中に足を踏み入れた。ほのかにあたたかい。
「ヨーゼフ、結婚おめでとう。どうだ、式は私に挙げさせてくれないか」
「は」
  ヨーゼフはほうけたようになった。社長が従業員の結婚式を挙げるなど、聞いたこともないだろう。私もだ。
「これは、ここだけの秘密だ。私はおまえと、マーリアをどうしても祝いたいんだ。マルコも手伝うだろう?どうだ」
「はい、もちろんです旦那!」
  マルコの涙はこぼれ落ち、止まらなかった。ヨーゼフは、お前は兄弟子あにでし思いだな、とマルコの頭をでながら、金儲け第一のはずの社長の気まぐれに理解が追いつかないようだった。無理もない。

  ヨーゼフがマーリアへ報告するために酒場へ取って返したあと、私はマルコにもう一つの提案をした。
「この聖書が刷り上がったら、一冊おまえにやろう。欲しいだろう」
  マルコは、赤くれたまぶたをめいっぱいに見開いた。しかしすぐに、黒い瞳の上にほたっ、とそれを落として、すまなそうに言った。
「旦那、俺は字が読めません。聖書を読めばいい、なんて偉そうなこと言いましたけど」
  すると、私の頭に良い考えが降ってきた。これこそ、神の天啓だ。
「それなら、私がお前と一緒に読もう。お前は字を学べるし、私はルター先生の教えをお前から聞きたい。何も知らないまま教会に行って教えをうのはしゃくさわるからな」

  マルコの瞳がきらきらと光って私を見上げた。そうだ、今は、この満足感に浸っていよう。
  あの『ゆるされたい』という衝動が私を襲ったとき、のぞきかけた心の奥の闇の深さに、私は身震いした。それは一つひとつの過ちや悪行とはもはや次元の違うモノで、金や善行でつぐなえるとは、とても思えなかった。
  これを直視するにはまだ早い。マルコがもたらす光が、否、聖書が私にもたらす光がこの闇をも吹き払うものだと信じられたなら、そのときには、私はこれに対峙たいじすることができるだろう。
  その日はそう遠くないことを心のどこかで感じながら、私はマルコの、喜びに溢れた歌声に耳を傾けた。

 イェズスはかの日 世をさばく王として 来られたのではなく
 我らすべての罪人に ゆるしをもたらすため 来られた
 我らの身代わりに 父なる神の裁きを受け
 いのちを捨て そしてよみがえり
 我らを滅びから 救い出された 主よ
 そのよみがえりの主は 我らとともにおられる
 そのよみがえりのいのちは 信じる我らのうちにある

少年は、ますます手際よく活字を清めていく。

きゅっ、しゅるっ、とん。
きゅっ、しゅるっ、とん。


紙をもて包みて渡す
心もて開かれまほしと君のに置く




長い物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後の歌は、
「本」もまた、紙で想いを包んで渡すもので
心でそれを開いて、受け取ってほしいと願いながら贈られるものだなぁと思い、詠みました。
ドイツを舞台にして、名前の読みもドイツらしくしてみたのに短歌で締めるという 笑

先に「紙」というお題で開かれていたグランプリを知り、活版印刷、ルターのドイツ語聖書、という連想で書いていったところ、既定の1200字には収まらなくなってしまいました。
そこで、10月31日の宗教改革記念日によせて投稿しようと思い立ち、この形に落ち着きました。

聖書を人に与えてくださった神、様々な迫害から聖書を守り抜き、まことの信仰を今日まで伝え続けてこられた先人、そして、いまともに ”ここに立つ” 方々に感謝しつつ。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった。

新約聖書 コリント人への手紙第一 2章9節

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