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白内障手術 私の場合  前編

白内障手術をすることになった。

白内障になるのは年寄りだと昔は思っていたが、やはり私も少し年を取ったということになるのか。

白内障は進み方がゆっくりだから、のんびり構えていたが、このところクルマの運転のとき、信号の矢印が見づらい。夜よりも昼や夕方の太陽に向かって走るときが、眩しく乱反射するし白く霞んで運転が怖い。事故を起こす前に何とかしようと思った。

最近は白内障手術は日帰りで行うところも多い。駅の広告看板にも、そのように謳うものが多い。
確かに簡単そうだが、私の場合、強度近視で黄斑浮腫もあるので、大事を取って3泊4日入院して手術することにした。

ひとそれぞれ眼の状態はさまざまだから、いろいろなことがあるが、まず私の眼とメガネの遍歴(なんて大袈裟なものではないんだけれど)を振り返り、そのあとで白内障手術を受けたようすなど話してみたい。

そもそも私は誕生したら未熟児(今は低出生体重児というそうだ)だった。1958年生まれた当時の医療水準で1900gだと未熟児網膜症の心配どころか、育つのさえ大変だったと両親から言われたのを覚えている。3.4才のころ、未熟児だったのに無事育ったということが理由なのだろう、保健所から健康優良児の表彰を受けた。公的機関から表彰されたのは、前にも先にもこの一回きりだ。その後はお陰様ですくすく育ち、普通に幼稚園に行き小学校にも無事入学した。

近視が発覚したのは、小学校一年生のころだった。

昔の商店街 中央区ホームページより画像引用

ある日、近所の商店街に母と買い物に行った時、母が空を飛ぶ飛行機を指差し、「飛行機見える?」と私に尋ねた。しかし見えなかった私は「見えない」と答えた。「あそこに見えるでしょ」という母に対し、「見えない」と私。とっさにおかしいと思った母は、私が生まれた総合病院の眼科へ私を連れて行った。診察の結果は近視で、小学校一年生にしては強い近視のメガネをかけることになった。メガネをかけることに抵抗はなかった。病院の中に売店があり、そこにメガネ屋さんが出店していた。初めてのメガネは黒のセルロイドフレームでレンズはガラスで薄いブルーの色つきだった。一週間経ってメガネ屋さんがわざわざ自宅まで届けに来てくれた。初めてメガネをかけると見慣れている本棚の本の背表紙の字がはっきり見える。この情景はいまでも鮮明に覚えている。

昔の黒のセルフレーム
インターネットから画像引用

当時は今よりメガネをかけている子供が少なく、ずいぶん恥ずかしい思いをした。それというのも、メガネ猿とか、モグラだとか、からかう同級生がいて、でも担任の先生がからかった同級生を叱り、私に対して謝らせた。正しい担任の先生だったが、なんだかこそばゆい感じがした。それでもセルの黒縁メガネをかけるのが嫌で、半ズボンのポケットに入れたまま遊び、よく無くしたり壊したりした。その度に両親から怒られた。学年が進むにつれ、度数も毎年進み、メガネレンズの厚みも、どんどん厚くなって眼がレンズ越しに実際より小さく見えるようになっていった。牛乳瓶の底というやつである。

高校生になると、女性の目を私も人並みに気にし出す。分厚いメガネだとモテないと思ったのである。そこでコンタクトレンズに挑戦した。今はソフトコンタクトレンズが主流だが、安全性を重んじ、医師の勧めでハードコンタクトレンズにした。最初ははめ外しに苦労し、ほこりやまつ毛が入ると痛かったが、じき慣れて、それ以来ずっとお世話になった。夜帰宅してコンタクトレンズを外して寝るまでは相変わらずメガネのお世話になった。しかしハードコンタクトレンズはソフトコンタクトレンズに比べて外れやすく、失くしやすい。何度失くしたことか、その度に両親から怒られた。その年何度目かの紛失で、親にもなかなか言えず、一週間位片方の眼だけコンタクトレンズをしていた。何かの拍子に失くしたことがバレて、片方のコンタクトレンズを作り直した。やれやれ、久しぶりに両眼にコンタクトレンズだと装用する。ところが今度はなぜか世の中の物がすべて二つに見えるのである。これは異常事態だ。すぐ総合病院の眼科で診察すると、遠くを見る時に眼が外側に寄せて視線を保つのだが、それが出来なくなっているという。何らかの原因で遠くを見る時も近くを見る時も眼の位置が同じままなのだという。開散麻痺といい、眼を動かす筋肉が麻痺しているのだといわれた。眼の前30センチ位は何とかなるが、それより向こうは、すべて物が二つに見える。そんなことが一週間片目にコンタクトレンズをはめなかっただけで起こってしまった。困ったことになった。治療としては、眼の筋肉を切ったり繋いだりの手術か、プリズムメガネを掛けることになる。当時の大学病院の教授は手術をやりたがらなかった。結果プリズムメガネをかけることになったのだが、近視同様度数が強いから厚く重いレンズになる。それを何とかするために、フレンネル膜プリズムというレンズが開発されている。薄くて軽いのだが、縦(眼筋の状態によっては横や斜め)にたくさんの筋が入るし、鮮明度も落ちる。しかしものを一つに見るために、コンタクトレンズをした上からさらに縦筋入りのメガネを掛けることになった。縦筋入りのメガネなんかかけている人はいないから恥ずかしく、見てくれも悪い。コンタクトレンズで分厚いメガネレンズからオサラバしたのに、今度は縦筋い入りのメガネだ。そのメガネはなんなんだ?と会う人に訊かれて、いちいち説明するのが大変だったし、正直面倒だった。だから嫌になって、いつの間にかプリズムメガネは掛けなくなってしまった。クルマの運転も効き目の右を主に使って見て普通に運転した。複視の手術もせずに長い年月が経ってしまった。しかし物が二つに見えてしまう他は、両眼とも視力は幸い1.0確保出来ていた。眼病で視力が弱いかたも知っていたから、ずいぶん恵まれていることはわかっていた。

40歳台になって老眼になっても、物は二つに見えていたがコンタクトレンズとメガネの暮らしが続いた。老眼になると遠くが見えるコンタクトレンズでは近くが見えなかった。そこでコンタクトレンズの上から遠近両用メガネをかけた。プリズムメガネはかけなかったから、物は二つに見えたまま、効き目の右眼で見ていた。帰宅してコンタクトレンズを外した時は、別の強度近視の遠近両用メガネをかけた。コンタクトレンズをしている時としていない時の別々のメガネを二つ使ったのだ。

40歳台後半になって、夜、会社からの帰宅途中、眼に異常を感じた。夜暗いのに異様な閃光を眼の内部に感じた。痛みとかは無かったが、明らかにいつもの眼の状態と違う。翌日たまたま休みの日だったので、地元の眼科に行った。診察の結果、網膜剥離だった。レーザー治療で幸い視力も確保できた。その時の医師が、「近視が強いから白内障の手術をすれば分厚いメガネやコンタクトレンズから解放されるよ」と水晶体の摘出を勧めた。しかしまだ白内障でもないのに水晶体の摘出には抵抗があった。と同時にその医師に何か商魂のようなものを感じて、網膜剥離の治療には感謝したが、足が遠のいた。

でも強度近視なので眼のことは心配だ。そこでネットで良さそうな眼科を探してみた。そして名医と呼ばれ評判が良く混んでいる眼科を見つけたのだが、通うには自宅から遠かった。さらに検索すると、その名医の教え子の医師が、自宅から会社に通う沿線で開業したという情報を得た。そこで早速診察を受けてみた。結果は強度近視ではあるが、今のところ差し迫った異常はない。ただ強度近視の人は緑内障で視力を失う場合があるから、予防的な意味も兼ねて眼圧を下げる目薬をするように言われた。一日二回の二種類の目薬点眼が始まった。そうして何年もして、また眼に変化があった。右眼の視力が緩やかにしかし確実に落ちていったのだ。自動車の運転も危なかった。緑内障のせいかなとも思ったが、白内障だった。かかりつけ医に相談すると、教え子が大学病院の教授で白内障手術も上手だと言う。クルマの運転も近ごろは危なかった。効き目が右眼だから主体で見たいのに右眼が白内障だから見にくい。効き目でない左眼で見ようとするとバランスが悪い。二つに見えてしまっていることも災いして、交代しながら見るのが不安定で難しく運転しているとき特に危ない。白内障の視力低下の度合いは一般的にいってそう悪くなかったのだが、運転の安全と趣味の写真撮影のことを考えて、白内障手術を受けることにした。右眼も左眼のように、霞を取り去ってすっきり見えたかった。

眼に良さそうな緑の中で

                 後編につづく

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