ジャック・アラン・ミレール(Jacques-Alain Miller)『一般化排除(Forclusion généralisée)』私訳
はじめに
以下はJacques-Alain Millerによる論文『一般化排除(Forclusion généralisée)』の私訳です。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter上で指摘・修正していただければありがたいです。
出典
Forclusion généralisée | Cairn.info
注意事項
・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所は[]をつけていますが、関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ミレール本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原文で斜体になっていたところは「…」としています。
・訳注は最後にまとめておきました
以下、和訳
一者(L’un)はすでにラカンの教育において、その道(trace)を描いている。しかし同時に、ラカンはコミュニケーションの構造で満足している。それは名高い(fameux)唯一の父(Un-père)である。ラカンはこの唯一の父の存在を精神病の突発の局面のうちに位置を割り出した。―唯一の父は確かにその同音異義性から名づけられた。[この同音意義性とは]a-a´の想像的関係の双数=決闘(duel)に関する失敗(impair)[または分割不可能性?]である。この関係へと、精神病的主体は閉じこもるのである。
ラカンは一者に対して、享楽を躾ける(civiliser)としての父によってアプローチした。しかもシンプルなやり方によって。享楽の一方の部分はファルス化不可能である($${\overline{\forall}x.\Phi x}$$)のに対して、父に固有の操作は「ほら急げ!( Et que ça saute !)」の様式についての問いを解決することである。
全てを作ることによって、父は剰余享楽を除外する。父は満たされることのない享楽を―強いて言えば―ファルスの機能によって拒絶する。この点について、父の操作はいかなる点においてもこのことを知ろうとしない。(コメント1)
コメント1
上記の父の操作において全称肯定(∀)が生成された。これによってΦに従わないものが抜け落ちているが、父の操作はこのことを知ろうとしないということ
男性の側は女性における愛の要求について何も知ろうとしない。[この愛の要求とは]つまり、唯一でありたいという要求である。ファリックな法がようやく自身を女性的論理に押し付けることに成功する時、この法は唯一でありたいというこの要求を却下する。女性の要求をいくつもある要求の一つにすることによって、―つまりこれは後宮(sérail)の構造であるわけだが―ファリックな法は享楽を制限するのである。
ラカンの父性隠喩は一者(Un)としての父の名( Nom-du-Père)を機能させる。しかしそれはラカンがこの父の名を大他者へと導入する限りにおいて、である。父の名に関する一者の操作によって、母の謎めいた不在が大他者に当てはまる意味、大他者に応じた意味を獲得する。もしファルスの意味作用が結果であるとすれば、ファルスの父の名の意味作用は享楽の練り上げをを表現している。この意味で、父は大他者の代わりのシニフィアンである。ファルスはそのシニフィエである。以上のことはランガージュと法の間の区別を切り開く。―ランガージュの大他者と法の大他者である。
排除の領野の拡大
以上の背景の中で、ラカンは排除の構造を明らかにした。私はこの構造を一般化したいと思う。したがって、以上のことが現れることに驚くかもしれないが、コミュニケーションと排除は対立すべきである(?)。ラカンは確かに精神病と父の名に関して排除を用いた。しかし、このことは基本的にはまさに特殊化排除(la forclusion restreinte)のドクトリンの本質に過ぎない。一般化排除(la forclusion généralisée)のドクトリンの余地があるのである。
このアインシュタイン的な一般化と特殊化の対照、エリック・ローラントはかつてこの対照を去勢に関して用い、特殊化去勢と一般化去勢を区別したのである。そのことはパリ第七大学の教授であるラプランシュ氏の関心を引いたと思われる。ラプランシュは≪特殊化誘惑(la séduction restreinte)≫と≪一般化誘惑( la séduction généralisée)≫を区別することによって際立っている。この区別を実行したラプランシュに囚われずに、しかしエリック・ローラントを引用するということは感じのいいことであったかもしれない(?)―というのもラプランシュはエリック・ローラントを読んでいたのだから―また、ラプランシュのために去勢から誘惑への移動の責任を保つということも感じのいいことであったかもしれない(?)。
さて、一般化排除である。
象徴界から現実界へ
排除の構造はコミュニケーションの構造と全く対立している。
ラカンは彼の精神病についての著作の中で排除の構造についてある単純な例を与えている。彼が典拠として用いたものは見たところコミュニケーションの現象である。つまりそれはある女性患者である。その女性患者は廊下で「雌豚!」と侮辱が聞こえた。その幻覚性の侮辱は彼女自身が言ったものである。当時ラカンはこの事例をコミュニケーションの構造の中で捉えた。ラカンはフレーズについて調べた。そのフレーズはこの侮辱に即座に先行し、また女性患者が彼女の頭の内で彼女自身が言ったフレーズである。女性患者が聞くフレーズは「私はお前にお前がひとりの女であると述べる(Je te dis que tu es une femme.)」という法にしたがってコミュニケーションの構造の中で把握しうるものである。
しかし彼女の面前にいる下衆な男は彼女に「君は私の妻だ」と言ったわけではない。彼は「雌豚!」と言ったのである。これは侮辱である。「君は私の妻だ」[という発言は]侮辱ではない。ただし侮辱を生じさせるかもしれないが…ピカソがブラック(訳注1)に対してではなく、ブラックについて、彼は私の妻だと言ったら、それは侮辱である
二つの点(IとA)を強調しよう。想像的関係だけでなく、象徴的関係も強調しよう。もし大他者の側から出発するなら(←A)、女性患者は「雌豚」と聞こえる。[我々は]まだこれから女性患者が最初に(I→)を雄豚(cochon)として構成したと推測せねばならない。(訳注2)
このことは大変尤もな予想される事態である。彼ら[=女性患者と下衆な男]が牧歌劇を母音唱法でうたっていないにも関わらず、これは女の羊飼いに対する男の羊飼いの返答( la réponse du berger à la bergère)[(慣用表現で)とどめの返事]であっただろう。雌豚と雄豚、これこそが牧歌劇の中にいないにも関わらず、田園で見つかるものである。それゆえ、問題となっているのは女の羊飼いに対する男の羊飼いの返答であり、より正確に言えば―雄豚の世話をする者はどんな名であろうか?―女の豚飼いに対する男の豚飼いの返答である。(訳注3)
これは大他者との関係ではないだろうか?ラカンのセミネールにおいて、確かにこの仮説を見出すことができる。―通常で精神病でないのであれば、彼女は彼にに対して「雄豚!」と言っただろう。(しかも「雄豚!」は「雌豚」よりもよく[侮辱表現として]使われる。)そして下衆な男は彼女に対して「雌豚!」と返答するのである。これが合意された基礎であり、了解された基礎である!セミネールIII巻において、このこと[=基礎?]から特徴を引き出すことなしに、慎み深いやり方で、ラカンは精神病においては、返答は第一の地位を占めるということを示唆した(訳注4)。女性患者はまず「雌豚!」と聞こえた。その後、「私、豚肉屋から来たの」というフレーズがどこかに(dans l’air)雄豚がいるということを仄めかしているのである。(コメント2)
コメント2:
多分女性患者は大他者からの語りかけに対する返答として「雌豚!」と言っている?
ラカンが彼の精神病についての著作において、この仮説を再び取り上げなかったことに注目しよう。ラカンは精神病についての著作において、反対にこの幻覚をコミュニケ―ションの現象として考えることに関心を抱いていないということを強調している。大他者が前にいるのか、あるいは後ろにいるのかを知ることは許されない。
ラカンのセミネールにおいて、ラカンは通常の対話(interlocution)と妄想的な対話の間に差異を設けようとした。通常の対話においては、そこから呼び名(l’épithète)が戻るところの大他者の備給があるであろう。これに対して妄想的、あるいは精神病性の対話においてはまず返答があり、それに続いてのみ語りかけがあるであろう。しかし≪精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い≫において、ラカンはこのことは本質ではないとしている。本質は、排除である。別の言い方をすれば、「雌豚」という単語は、侮辱は発音されていないにも関わらず、確かな要素によって現実界において理解されるべきであるということである。重要なのは、言葉のレジストリのこの変化である。これは私が象徴界から現実界への次元の転移と呼んだものである。
排除はここ[=精神病のいかなる~]において、コミュニケーションと対立している。実際、主体から大他者への移動(déplacement)と大他者から主体への移動の問題系を除けば、コミュニケーションの問題系とは何だろうか?ところが、排除の構造は主体から大他者への転移によって支えられているわけではなく、むしろ象徴解から現実界への転移によって支えられているのである。これこそがこの事例で重要なことである。
言葉に尽くしがたい
私は既にこの事例における女性の隣人(訳注5)が持っている主要な機能を解説した。これは以前の講義[=精神病のセミネール?]においては明確ではなかった。女性患者は彼女の母と二人で妄想に囚われていたのに対して、彼女の隣人(女性患者を侮辱した男性の愛人である)は不当な侵害を行うものとして描写される。ラカンのセミネールにおいて、ラカンは彼女を最も重要なおせっかいな人に固定した。詳細を省けば、しかしながらこの隣人の享楽の価値は再認識されるべきである。
ひとが、それ[=享楽?]を大他者にすることによって享楽についてよく理解しているふりをするとき、人は享楽を良き隣人(le Bon Voisin)であると呼ぶことができる。宮廷愛においては良き隣人は貴婦人の名前である。これに対してさて、ここでは、悪しき隣人(la Méchante Voisine)がいる。我々は宮廷愛のレジストリの中にいるのではない。むしろ、踊り場での口喧嘩( la querelle de palier)のレジストリにいるのである。宮廷愛はそもそもまさに踊り場での口喧嘩を避けるための方法である。騎士たちは山越え谷越えいつも彼らの貴婦人と同じ踊り場で行きつかぬようにしているのである。
ラカンはどうやってこの現実界の再出現に説明を与えたのだろうか?それは言おうとする=
意味すること(vouloir-dire)観点においてからではない。もし女性患者が「あなたは雄豚である(Tu es un cochon)」ということができたなら、それは平凡な踊り場での口喧嘩になっていただろう。ところがこの場面で問題となっているのは言おうとする=意味すること(vouloir-dire)ではない。むしろ問題となっているのはラカンがディスクールからの拒絶の意図と名づけたものである(訳注6)。ディスクールはある拒絶の意図を持っている。つまりこうして「私、豚肉屋から来たの」というフレーズはまじない(conjuration)の価値を与えるのである。
何から拒絶されるのか?闖入するものから拒絶されるのである。つまり享楽から拒絶されるのである。ある種の享楽(?)に固有の練り上げの先取りによって、当時ラカンが言葉に尽くしがたい対象(l'objet indicible )(訳注6)、名前を持たない対象、シニフィアンのうちに代理表象されない対象と呼んだものの中心にラカンはこのいわゆるコミュニケーションを置いた。排除はたんに存在しないこと(Il n’y a pas)―父の名(le Nom-du-Père)が存在しないこと―ではない。それは現実界における拒絶なのである。
その観点から見れば、性関係は存在しないと認めること―私は以前このことは否認するに値すると言ったのだが―は相関的に象徴界の現実界への関係を前提とする。コミュニケーションの構造の代わりに象徴界において主体の大他者との関係として現れるもの、それは象徴界の現実界への関係としての排除である。女性の隣人の恋人(訳注7)は確かにラカンの用語に従えば唯一の父(Un-père)の位置に来る。(訳注8)彼[=女性の隣人の恋人、つまり下衆な男]は二人の妄想者[=母と娘?]たちの想像的カップルに対して第三の位置に来る。しかし四番目の項を忘れてはならない。この四番目の項を私たちは空白の括弧によって指し示す。即ち、ラカンにとってそれは言葉に尽くしがたい対象である。
父の名が構成される時、父の名と、父の名が影響を与えるファルスの意味作用は享楽の闖入を飼いならすのである。我々の例においては、これに反して、一性(l’Un)、父の一性がこの闖入を飼いならすに際して無能=インポテンツなのである。このことが精神病の構成要素である。
排除の一般的な様式―それは関数Φxに関わるのであるが―は以下のことをもたらす。つまり主体にとって、精神病だけではなく全ての症例において、名を持たぬもの(sans-nom)、言葉に尽くしがたいものが存在するということをもたらすのである。
父と症状
どのように、どの関数によって、そこで常に排除されているもの―というのも享楽の排除が全ての症状において生じているのだから―つまりこの名を持たぬもの(sans-nom)は飼いならされてしまうのだろうか?もちろん、症状はこの飼いならしを実現するものである。このように(?)、症状において、父の機能は症状の機能である。
もしこの「雌豚」という語―それは享楽に対してなされた侮辱なのだが―が精神病ではない症状において用いられた場合を想像するのは難しいことではない。
確かに、精神病的症状は象徴界から現実界への転移を最も明示的で最も露骨なやり方で実現する。しかしこれをもとにして練り上げられた症状がヒステリー的である場合、現実界の内へエスが戻ってくることは不可能である。それは例えば以下のような形で、である。―あたかも全ての人間たちが雄豚であるかのように振る舞う。そうであるにも関わらず、踊り場の患者の踊り場の隣人のゆえに患者自身が雌豚と言うことを聞くことなしに、である。このことはどちらにせよ、非常に強迫的な症状であり得る。―とはいえ、私は続けてそうした例を挙げることができない。特にこれに関する倒錯者の症状については....私はあなたに[こうした例を]構築することを任せる。女性に対してなされる侮辱―一度はあなたもそれを楽しんだことがあるだろうが―は侮辱から享楽への症状性の練り上げをよく見せることができる事態である。
このように考えると、父、唯一の父 Un-pèreとラカンが私たちに言ったものはシニフィアンよりはむしろ症状である。それは症状の機能それ自体である。
どういうことだろうか?何故、ラカンはこの留保を定式化したのだろうか?その留保とは小文字の父(père)が自身を大文字の父(Père)だと思わず、またそのことをある女性が小文字の父の欲望の原因であるという事実によって示すという留保である。
良き父―もし私がそう言うのなら―は、自身を一者(l’Un)であると思うような父つまり自身を法の大他者と混同するような父ではない。この法の大他者の視点からすれば、誰も法を無視しないのである。つまり、[良き父とは]反対に法を無視できるひとであり、―特に母に子供の世話、つまり彼女の対象aの世話をさせておくようなひとである―そして自身の欲望を無視し、譲れるようなひとである。
その一方で人々が私に指摘するように、ラカンによって取り上げられた精神病の発症の例は全て女性に関わるものである。以上のことは全くその通りである。―唯一の父(Un-père)の酷使(forçage)の効果は全てではない($${\overline{\forall}x.\Phi x}$$)が有効な地点において、厳密に明白である。
問題となっているのは関心を言葉に尽くしがたい対象へとまとめることである。この言葉に尽くしがたい対象は精神病的症状において、現実界の内へと反響され、そしてこのような場合には喋る形態に見出されるのである。
訳注
訳注1:ジョルジュ・ブラックのこと。この話がピカソとブラックの何らかの逸話に基づいているのかは不明。単なる例として挙げているだけかもしれない
訳注2:le cochonは食用に去勢された雄豚のことを指すらしい
訳注3:
訳注4:
上記に対応する邦訳の箇所
訳注5:下衆な男の愛人の事、精神病(上)p.80参照
訳注6:
訳注7:écrit p.534(まだ訳せてない)
訳注8:écrit p.577(まだ訳せてない)