ジャック・ラカン『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』(エクリ所収)―私訳―(5/n)
以下はÉcritsに収められている論文『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』の第4部に対応するIV. Du côté de Schreber.の後半の翻訳です。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter(@F1ydayChinat0wn)上で指摘・修正していただければありがたいです。
原文は1966年にSeuil社から出版されたÉcritsのp.541~p.547に基づきます。したがって、1970年と1971年に刊行されたÉcrits IとÉcrits IIについては参照していないため、注などが不完全であるかもしれません。
また翻訳に際して以下の三つの翻訳を参照しました
B.Finkの英訳
ドイツ語訳(旧訳)1986年にQuadriga社から出版されたSchriften II
日本語訳(佐々木訳)
1の英訳についてはwebサイト(users.clas.ufl.edu/burt/deconstructionandnewmediatheory/Lacanecrits.pdf)で閲覧可能です。
2のドイツ語訳に関しては Turia + Kant 社?から出版されている新訳のSchriften IとSchriften IIがありますが、入手できなかったため旧訳を参照しました。
基本的な文構造はFinkの英訳に従い、適宜独訳を参考にしました。結果として佐々木訳とはやや異なる箇所が多いです。
また参考文献として以下を参照しました。
ある神経病者の回想録(ダニエル・パウルシュレーバー)1990年、筑摩書房
Memoirs of my nervous illness, by Schreber, Daniel Paul, 1842-1911; Macalpine, Ida; Hunter, R. A. (Richard A.)
またシュレーバー回想録の引用は上記の日本語訳に従っています。(一部エクリのフランス語訳との兼ね合いで変更した箇所はあります。)
二つ目のシュレーバー回想録の英訳版は以下のページで閲覧できます。ただしネットで閲覧できるものは1988年の改版(?)と思われるのでラカンが本論文を執筆した時のバージョンではありません。
Memoirs of my nervous illness : Schreber, Daniel Paul, 1842-1911 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
注意事項
・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所・または短めの訳者コメントは[]をつけています。関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ラカン本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原注、訳注、長い訳者コメントは最後にまとめておきました。訳注は主に引用されている文献の被引用部を中心にした抜粋が多いです。
・原注の番号は降りなおしてあります
・段落の改行は原著に従います
以下、本文
5.ここで象徴秩序の中で構成される主体の位置を今や、我々のシェーマRの中に主体の位置を見出す三要素へと移すことを試みよう。
我々には確かに、<創られたモノ>Iはここで、法が空位になっているPの位置を引き受けるように思われる。<創造者>の位置はこのPの位置において、捨て置かれたもの(ce liegne lassen)、基本的に( fondamental)、放っておくこと(laisser en plan)によって自らを示している。ここにおいて、<父>の排除によって、欠如が剥き出しにされるようにおもわれる。この欠如は<母>の原初的な象徴化Mを構築することを可能にしたのである。
一方と他方の間で[=父と母の間で]、パロールの<創造者>の中で頂点に達する線は主体の希望(V, Post-scriptumを参照)を与えられない幼児の位置を占めているのである。この線は同様に<父の名>の排除によってシニフィアンの領野のうちに穿たれた孔を迂回するものとして理解されている (v. Schéma I, p. 571)。
主体におけるシニフィアンの鎖の支え(support)が欠如しているのは、この孔の周りにおいてである。そして確認されるように、パニックになるからといって、この孔が言い表せない必要はないのである。主体が自らを再構築した戦い全体はこの孔の周囲において行われたのである。この戦いを主体は自身の名誉の下で行うのである。そして天の膣(les vagins du ciel)( Vorhöfe(前殿[訳注1])のもう一つの意味である,V.において既に言及した)、一群の奇蹟の少女たち―彼女らは孔の縁を取り囲んでいる―はハルピュイアの喉から絞り出される賞賛に満ちたクックックというという笑い声[訳注2]によって注釈をそれ[=この戦い?]にするのである。[その注釈とは]「いまいましい奴め!(独:Verfluchter Kerl !, 仏: Damné garçon! )」言い換えると、「何と度胸のある男か!(c'est un rude lapin. Hélas!)」これら[の注釈]は反語法であったのである。
5.というのも、既に以前からシュレーバーに対して想像的領野におけるギャップ(la béance )が明らかになっていた。このギャップはここで、象徴的隠喩の欠如に対応する。このギャップはまさに男性化(独:Entmannug, 仏:émasculation)を達成する手段を見出すのである。
[ここは誤植で6が正しそう。Finkも独訳もそう解釈している。]
主体にとって何よりも恐ろしいものは理性的な妥協(vernünftig, S. 177-XIII[訳注3])として受け入れられた。それ故[この妥協は]不可避的なものと受け取られた選択なのであり(S.179-XIIIの注参照[訳注])、世界に関係する贖罪の将来的な動機なのである。
もし我々がそれにも関わらずこの男性化という用語に関わるだけで済むのなら、この男性化という用語は必ずや、我々が述べたような立場にあるマカルピン夫人[の場合]よりは、我々を困らせないだろう。恐らく、マカルピン夫人はその立場において、去勢化(emasculation)という語を脱男性化(unmanning)という語に置き換えることで整理している。この語は著作集(Collected Papers)第三巻の翻訳者がそうすることで十分であると単純素朴に考えていたのである。さらにマカルピン夫人は[当時]準備中であった許可された(autorisée)版におけるこの翻訳の保持を保証したのである[出典どれ?]。恐らく、ここでマカルピン夫人は何らかの神話的なかすかな提案を保持しており、この提案によってこれらの二つの用語[=emasculationとunmanning]を区別していたのだが、しかしながらこれら二つの用語を同じように使用することに陥ってしまったのである(原注1)。
しかし、それがなんだというのか?マカルピン夫人が回想録に言及する際に、マカルピン夫人が器官を問題にすることを不適切[原注2]なものとして退けることによって、彼女は主体の内臓の内へと穏和に吸収されるという約束をまさに望んでいるのである[訳注5]。彼女はこれによって、びくびくとうずくまっている様子―人々がぶるぶると震えている時、人々はこのようになるのである―を我々に表現しようとしているのだろうか?あるいは、サテュリコンの著者がその茶目っ気によってぐずぐずと続けている描写に対する良心の異議を我々に表現しようとしているのだろうか?
あるいは、もしかすると、マカルピン夫人は去勢コンプレクスにおいて現実的去勢が決して問題にならなかったと考えているのだろうか?
恐らく、主体の女性化(Verweiblichung)と男性の去勢(éviration)(というのも、évirationはまさに脱男性化(Entmannung)の意味であるから。)を同等のものと把握する際に生じる曖昧さを指摘する十分な理由が、マカルピン夫人にはあるのだろう。しかし、マカルピン夫人はこの曖昧さは、ここでこの曖昧さを産み出している主観的構造それ自体に関する曖昧さであるということを理解していない。この主観的構造は、想像的水準において主体の女性化に隣接するものが、まさにこの主体をしてあらゆる相続物(hoirie)を放棄せしめるということを伴うのである。この相続物においては、主体は自身の人格に対するペニスの割り当てを正当に期待することができるのである。これは以下の理由からである。即ち、原則としてêtre[=存在すること]とavoir[=持つこと]が互いに排除しあうものであるのだが、少なくとも欠如が問題となる際には結果として、このêtreとavoirは混同されるのであるという理由からである。このことは以下で述べることに対してこのêtreとavoirの区別が決定的であるということを妨げはしないのである。
患者が女になるということを運命づけられることの原因は、ペニスから排除されているということにあるのではなく、ファルスを欲望するということに注意することによって、上述のこと[=êtreとavoirの区別が一般的であるということ]が分かるのである。
少女( Mädchen)=ファルス(Phallus)という象徴的な側面、あるいは英語でGirl=Phallusという表式は M. Fénichel(原注3)が述べているように、想像界の化学にその起源を有している。この表式や側面はM. Fénichelに賞賛に値するテーマを与えたのだが、それでもいささか混乱している。この想像界の化学によって幼児の欲望は母における存在-の-欠如(manque-à-être )へ同一化することになるのである。もちろん母自身は象徴的法によってこの存在-の-欠如へと入れられたのである。この象徴的法において、この欠如は構成されるのである。
女性達が現実において、彼女たちは気に食わないだろうが、交換のための対象として役立つという事実も同じ機構によるものである。この交換は親族の基本的諸構造を順序立て、ファルスは[この交換に対応して]対応して象徴秩序の内を伝わってゆくものであるにも関わらず、[この親族の基本的諸構造は]時によっては想像界において持続するのである。
6ここで同一化が何であるにせよ、この同一化によって主体は母の欲望を引き受ける。[主体が]揺さぶられることによって、この同一化はは想像的三脚の内への[主体の]溶解を引き起こす。(見事なことに、主体の母のアパルトマンへとシュレーバーは逃れたのであるが、この母のアパルトマンにおいて主体[=シュレーバー]は自身の最初の自殺的な興奮(raptus)を伴う不安な混乱との接触を持つのである。[訳注6]S.39-40-IV)
恐らく無意識の予見は大変早く主体に以下のことを知らせた。それは即ち、[主体は]母において欠如しているファルスであることはできず、男性には欠如している女性として存在するという解決策が主体にとって、残っているということである。
これがまさに[シュレーバーの]幻想の意味である。この幻想の関係はシュレーバーの筆致の下でより顕著になったのである。そして我々は以前この幻想をシュレーバーの二回目の病の潜伏期から引用したのである。即ち、「女であって、性交されているならば本当に素敵であるに違いない」という観念である。シュレーバー文学におけるこの周知の事実はここに確かにピン止めされている。
しかしながらその時、この解決策[=男性には欠如している女性として存在するということ]は時期尚早であったのである。というのも、人間遊戯(Menschenspielerei )(基本の言葉のうちに現れる用語、即ち今日の言語(langue)では=[我々の用語では]:人々の喧嘩)が通常は[この解決策の結果として]生じる。この人間遊戯に関して、勇敢さへの呼びかけは何の反応も引き起こさないといえるだろう。というのも、主体それ自身と同じくらい現実味がなくなって(improbable)しまった人々は主体と同様に全くファルスを奪われてしまっているからだ。この線(trait)は、主体の想像界から省かれているものであるが、これは主体に対してそうであるように、他の[現実味がなくなってしまった]人々にたいしても同様である。この線は、小さなハンスが[描いた]デッサンにおいて見られる彼の姿の輪郭と類似のものである。あるいはこの線は幼児が[描いた]デッサンに精通している人々にとっては馴染みのものである。というのも、[小文字の]他者たち(autres)は«へのへのもへじのいい加減に仕上げられた男たちのイメージ[訳注: [訳注]S3(上)p.87,IVの3の手前あたり](images d'hommes torchées à la six-quatre-deux)»に過ぎないのだから。束の間に組み立てられた男たち( flüchtig hingemachte Männer)[に対応する]この翻訳[= images d'hommes torchées à la six-quatre-deux]において、hinmachen[組み立てる]の用法についての Niederland氏の指摘と、フランス語用法におけるÉdouard Pichonの羽の力が結びついている(原注4)。
今作動している問題は、もし主体が見事に埋め合わすことができなければ、大変不名誉な形式で停滞しつつあったのである。
シュレーバー自身は(1895年11月、即ち彼の発症から二年後に[=回想録13章のこと?])和解(Versöhnung)の名の下に結末を関係させていた[訳注7]。この語[=Versöhnung]は償い(expiation)、贖罪(propitation)、の意味を持つ。そして基本の言葉の特徴を考慮すれば、人々はこの語を妥協(compromis)の意味において強調するのであるが、この語は[罪、過失等の]埋め合わせ(Sühne)の原始的な意味の方へと、即ち犠牲の方へとやはり一層引き寄せられるべきである。(理性的な妥協(compromis de raison)についてはp.564,この語によって、主体[=シュレーバー]は自身の運命の受け入れに対して躍起になっている。)
ここで、フロイトは確かに主体それ自身の合理化を越えてゆく。フロイトは逆説的に以下のことを認める。改悛を(というのも、それはのVersöhnungフランス語[の翻訳]において選ばれている平板な意味なのだから。)主体は重視するのだが、この改悛はその原動力を、この改悛に伴う愛人[=フレクシッヒのこと?]の欠点を隠した取引(maquignonnage)のうちに見出すということを。即ち、いかなる場合にも、神の嫁は常に大変お高くとまったプライドを満たせるような姻戚関係を負うという考えのうちに、この改悛はその原動力を見出すのであるということを、フロイトは逆説的に認めるのである。
フロイトはここで最も矛盾したやり方で自身に固有の規範に背いた、といえると我々は考える。これは、フロイトが妄想の転回の瞬間として、フロイトが彼の一般的な見解において拒否したものを受け入れたという意味においてである。それは即ち、[フロイトが]偉大な観念に同性愛的主題を従属させるということである。(我々は、読者諸氏がこのフロイトのテキストをよく読んでいると思っている。)
この[フロイトの]無能はその理由を必然性のうちに、即ちフロイトがまだナルシシズムの導入を定式化していなかったという事実において、有している[訳注8]。
7.]憤激の立場が反転する真の原動力を逃さなかったはずである。このシュレーバーの憤激は、まず主体の人格のうちで脱男性化(Entmannung)の観念によって生じた。このことは大変厳密に主体が死んでいる間に生じたのである。
それは少なくとも、次のような事件である。即ち、いつも正しい情報源に通じており、その情報サーヴィスにおいて常に変わらなかった声が、後に死亡者記事の欄にシュレーバーが載っている新聞の日付と名前をシュレーバーに認識させた事件である(S. 81-VII, 邦訳p.70)。
一方で我々としては、適切な時に我々にカタトニー性の昏迷の状態にある患者の描像を与える医学的な証明書が、我々に与える証言で満足することができる。[訳注:S.380 ,邦訳p.314参照(禁治産訴訟の審理からの公文書記録のこと)]
この瞬間のシュレーバーの記憶は、いつものように、欠けていない。それ故、我々は以下のことを知るのである。即ち、人々が足を前にして自身の死に際へと入ることを命じる慣習を修正し、まさに貨物輸送をまたぐために、我々の患者は足をその外に出すことに満足を見出しているということを知るのである。言い換えれば、冷たさを窓の外[の雨に]求めるという偏った口実(S. 172-XII)[訳注9]によって窓から[足を]はみ出させることは、それ故おそらく、シュレーバーの誕生の提示を繰り返すということであるということを知るのである。(まさに想像界の変化に関心を持っている人々に、このことの評価を委ねよう。)
然し何らかの生活環境の変化を被らずに約50年間を再開するということは、キャリアではない。声がシュレーバーに、シュレーバー自身を«別のらい病患者の死体を導くらい病患者の死体»(S.92-VII)として与えている忠実な肖像画―我々分析家はそれを大変素晴らしい説明だと言おう―において、以下のことが認められるべきである。即ち、アイデンティティーがシュレーバーの二つの精神の対決へと縮減されているということである。しかしこれに加えて、この肖像画は鏡像段階への、発生論的ではなく局所論的な主体の退行を明らかにしている。その鏡像段階は、他者との鏡像的関係が他者の致死的な刃へと自ら縮減している限りでのものである。[よく分からない。]
それは、シュレーバーの身体が風変わりな«神経»の群れの集合体、シュレーバーの迫害者たちのアイデンティティーから離れた諸要素のある種の掃きだめに他ならなかった時期と同じであった。(S.XIV)
以上に述べたことと同性愛との関係が確かに妄想の中に表れていた。そうした関係は我々にとって、理論において為され得るこの言及[=同性愛への言及]のやり方についての一層入念な統制を必要とするように思われる。
その重要性は非常に大きい。というのも、もし我々がここで決定的であると捉えているものが象徴的関係によって明らかにされないのならば、解釈におけるこの単語の使用は深刻な損害を引き起こし得るからだ。
8.象徴的なこの決定は、想像的構造が自身を再建するに至る形態においてはっきり示されると我々は考えている。この段階において、この想像的構造は二つの側面を提示する。この二つの側面はフロイト自身が区別したものである。
[この二つの側面のうち]第一の側面は実際には性転換状態である。この性転換状態は、≪倒錯(perversion)≫に関係させるのに全く相応しくない。以前より無数の観察がこの倒錯の特徴を明確にしている(原注5)。
これに加えて我々は、我々がここで引き出した構造が、大変特異な執拗さを明らかにするかもしれないということを指摘しておく。この執拗さはこれらの観察における主体たちが示したものである。[こうした観察は、]そうした主体たちの最もラディカルにまっすぐにする諸要求のために、彼らの父親の許可―それどころか[この父親の許可は]手助け(a main-à-la-pâte)とも言えるだろう―を得るための、観察である。
ともかく我々は、我々の主体が性的活動を放棄するのを見たのである。この性的活動が厳密に孤独のために残されたことを、我々の主体[=シュレーバー]は強調するのである。しかし、それにも関わらずシュレーバーはこの孤独に対する満足を告白している。そうした満足とは、即ちシュレーバーに対して鏡の中の彼の像(image)が与えるそれである。女性用の装身具一式を身に着けた時、シュレーバーが言うように、彼の上半身において彼に対してはどの部分も、どんな潜在的な女性の胸の愛好家も説得させることができるように見えたのである(S.280-XXI)。
シュレーバーの外皮、とりわけ女性的な性的興奮を引き起こすと見なされている領域における、いわゆる女性的快楽の神経の発達は身体内的な知覚として主張される。この神経の発達を上記のことと関係づけるのが望ましいと我々は考える。[S.274,Finkによる注釈]
女性のイメージについての観想(contemplation)を絶え間なくし続けることに関して、何か女性的なものの支えから決してシュレーバーの思考を切り離すことができないということに関して、神的な快楽がシュレーバーに益々十分に与えられるという指摘は、我々をリビドー的ファンタズムの別の側面の方へと進路転換させる。
これが主体の女性化を神的な性交[=神との性交]の座標へと結びつけるのである。
これに関してフロイトは壊死=死体化(mortification)の意味をとてもよく理解していた。フロイトは«魂の快楽»はこの死体化に含まれるのだが、この«魂の快楽(仏:volupté d'âme, 独:Seelenwollust)»を、死んだ魂の状態である«至福(仏:béatitude, 独:Seligkeit)»と結び付けるあらゆるものを際立たせた。
それ以後、祝福された快楽は魂の至福になるということは、実際、本質的な転換である。我々が指摘するように、フロイトはこの転換の言語学的な動機を強調する。それは、フロイト言語[=ドイツ語]の歴史が恐らくこのことを明らかにできるかもしれないと提案することによって、である(原注6
)。
文字が無意識において自身を表している次元において、それ[=フロイトの提案]は誤りを犯すことに他ならない。加えてこの次元は、文字に固有な審級に従えば、語源学的(正確には通時的)というよりは、はるかに同音異義的(正確には共時的)なものである。実際、ドイツ語の歴史において、至福(selig)を魂(Seele)に結びつけることを許すものは何もないし、また、愛人たちを«天へと(aux ceiux)»運ぶ幸福―フロイトが引用したドン・ジュアンのアリアにおいて彼が想起したものとしての幸福―を、いわゆる祝福された魂たちに天の滞在を約束する幸福に結びつけることを許すものも、何もないのである。死者たちはドイツ語でseligであるが、これはまさにラテン語からの借用によるものであり、この言語において[=ラテン語において]祝福された死者たちの記憶(beatae memoriae, seliger Gedächtnis)がseligと言われるからである[訳注8]。この死者たちの魂(Seelen)は、何らかの至福に関わるというよりは、むしろ湖(Seen)に関わるのである。この湖に死者たちの記憶は一時的に逗留するのである。無意識はシニフィエよりもシニフィアンを気にかけるのであり、«亡き父(feu mon père)»はここで、「私の父は神の火(le feu de Dieu)であった」ということ、加えて、神を前にして「[神を]撃て!」(feu!)[ 英語ならfire!]という命令を命じることをも、意味し得るということを申し添えておく。
この脱線を過ぎて、ここで我々は、自身の目的の実現を無限に延期することに際限なく甘んじている世界の彼岸にいるのである。
実際確かに、シュレーバーが自身の女性への変態を成し遂げたなら、神的な受胎の行為が行われるであろう。この行為についてはよく知られているように、神はこの受胎行為を[性的]器官を通じて実行することができない(S. 3-Introd.)[訳注9]。(生けるものに対する神の嫌悪を忘れないでおこう。)シュレーバーが彼の体内で胎児の胚が目覚めることを感じたということは[訳注10]、それ故、神秘的な操作に因るのである。シュレーバーは彼の病気の初期の段階で既に胎児の胚の震動を経験していたのである。
恐らく、シュレーバー的被造物の新しい神秘的な人間性がシュレーバーの内臓から丸ごと生の人間性の再生は]ここでは確かにある種の贖罪なのである。というのも、このようにしてじたのである。それは腐敗し、有罪を宣告された現代の人間性を再生するためである。[こ[=シュレーバーが人間性を再生し、回想録を出版することによって]人々は妄想のカタログを手にしたのであるから[訳注11]。しかし、[この救済は]まさに来たるべき被造物を目標としているのである。というのも、快楽による神的光線の束縛―この快楽が神的光線をシュレーバーに固定するのである―と相関的である退廃に現在の被造物は見舞われているからである。
これに関して、幻想(mirage)の次元が姿を現すのである。その約束がぐずぐずと引き延ばされる不定形の時間がこの次元をさらに強調する。そしてファンタズマを証言する媒介の不在が根底的にこの時間を条件付けている。というのも、ファンタズマは人類の破局に陥った結果である、大地に再び人々を根付かせるための力を持った最終的な生存者のカップルをパロディー化するということが分かるからだ。動物的な再生産の行為が彼ら自身に総体としてもたらすものに彼らは直面するだろう。
ここでは依然として、転回点は被造物のシーニュの下におかれている。この転回点において、線は二股に割れる。ナルシックな享楽の線と理想的同一化の線である。然し、それは自身のイメージが、この二つの線が深く根を下ろしている想像的捕獲というおとりであるという意味においてである。同様にここでは、線は孔(trou)の周りを回っている。この孔においては、厳密に«魂の殺害( meurtre d'âmes)»が死を導入したのである。
この別の裂け目(gouffre)が、象徴界において父性隠喩へと為される想像界の空疎な呼び声における単純な効果によって形成されるのであろうか?あるいは、我々はこの裂け目をファルスのエリジオン[=省略]による、第二段階における(en un second degré)産物として捉えねばならないのだろうか?この省略を解くために、主体はこのエリジオンを鏡像段階の致命的なギャップ(béance )へと還元するであろう。確かに、今回のこの鏡像段階と、原初的なものとしての母( Mère)との象徴化の発生論的関係(llien)はこの解決を正当化するために言及されないことはあり得ない。
精神病の進行過程の終局にある主体の構造についてのシェーマにおいて、シェーマRの幾何学的な点を割り出すことができるだろうか?我々はこのことを、以下で提示されたシェーマIの中で試みよう。
恐らくこのシェーマは過剰を帯びている。自身を直観的なもののうちに示そうとする全ての定式化は、この過剰を余儀なく[帯びるのである。]
![](https://assets.st-note.com/img/1706970097483-0aguZrbcE7.png?width=1200)
言い換えれば、シェーマIのうちにシェーマRからシェーマIへと転記された文字が特定している諸機能の間に現れる歪みは、弁証法の再開の時のこの歪みの使用によってのみ評価され得るのである。
ここではただ―描かれた双曲線の二つの曲線において、この二つの曲線の漸近線によるガイドの二直線の一方に沿った、二つの曲線のスライド(glissement)を除いて[=二つの双曲線の漸近線方向へのスライドを考慮しなければ]―空間と時間における想像的な発散より発し、二つの漸近線の交差(conjonction)による収束へと至る、譫妄(délirant )した自我(moi)と神聖な小文字の他者を結び付けている二つの漸近線の中において、関係(lien)は顕著なものとなっていることを指摘しよう。フロイトがそのような形式の直観を持っていたということを明らかにしないことがないようにしよう。というのも、フロイトは自身で、「この過程において漸近的(asympotisch)」という語を導入したのだから(原注7)。
これに対して、現実的な被造物の全き繁栄は、主体において、自己イメージについてのナルシシックな享楽とパロールの疎外との間に置かれる。このパロールにおいて、自我理想が大他者の位置を占めていたのである。
このシェーマはシニフィアン的な方法で、フロイトの研究の実質的な豊かさの根底に存在するものを具現化する。というのも、精神病の最終状態の証言であるだけでなく、その生産物でもある、書かれた書類[=シュレーバー回想録?]以外に、他の支えや助けを用いずに、フロイトは[精神病の]進行過程の発展それ自体についての最初の光を投げかけたのであるから。[そうしたフロイトが投げかけた光は]精神病の進行過程に固有な決定を明らかにすることを可能にしたのである。我々は、[この精神病の進行過程に固有な決定を]精神病の進行過程に本質的に関係する唯一の有機性であると言いたい。即ち、[その有機性とは]、シニフィアンの構造の動因となる有機性である。
このシェーマの形式の内に簡潔に要約してみれば、シニフィアンの誘導による、想像界に向けられた諸効果が主体―この主体を、臨床医学は世界の衰退[=世界没落経験?][訳注12]の局面から指し示す―のこの激変を引き起こし、これを通じて明らかになった、諸関係は、この主体の激変に応じるために、新しいシニフィアンの諸関係を必要とする、ということである。
我々のセミネールにおいて、我々は、前方の神の国と後方の神の国、下方の神(アリマン)と上方の神(オルムズド)の象徴的な継起(succession)[S19,邦訳p.22]と、それらの主体に対する(基本の言葉で)«政策»の転換は、想像界の崩壊(dissolution)の異なる段階において、まさにこの応答を与えるものである。そのうえ、病気についての回想録と医学的鑑定書は[想像界の崩壊に対する]主体の秩序をそこ[=回想録や鑑定書]に位置づけなおすためのこの応答を十分に含意している。
ここで我々が前景化させている、シニフィアンの疎外的影響についての問いに関して、我々はここで、1894年7月のある夜に至った天底(nadir)を取り上げておこう。この夜に、下方の神(アリマン)が、神の能力を大変印象づける仕方でシュレーバーに現れ、この単純な語によってシュレーバーに呼びかけた。主体[=シュレーバー]によれば、この語は基本の言葉においては、日常的に使われる語である。[その語とは、]売女(独:Luder)![である。]
この語の翻訳はSachs-Villatteの辞書に頼る以上のことをせねばならない。この辞書はフランス語に関しては満足なものである。Niederland氏の、”lewd” という売女を意味する英語にへの参照を、卑猥な罵詈雑言としてlewdの用法[=意味]であるところの腑抜け(chiffe)やあばずれ(salope)に通じさせるための努力として認められると我々は思われない。
しかし、もし我々が顕著な古風さが基本の言葉の特徴であることを考慮に入れるならば、我々はこの語をフランス語のleurre[=ルアー、囮]、英語のlureの語根と関係づけることは許されると考える。このルアーという語は確かに、人が象徴界より来たるのを期待するもの[=大他者]との理性よりも感情に訴える[=ad hominem]最良の談話なのである。大他者は大変無礼なのである。
このシェーマ[=シェーマI]における領野Rの配置が、主体にとっての現実(réalité )が回復するための条件を表す領野として残っている。主体にとって、この領野はある種の小島である。この小島の恒常性についての試練の次に、この小島の一貫性が主体に課されるのである(原注8)。我々にとって、[この小島は]主体にとってこの現実(réalité )を居住可能なものとし、しかしまたこの現実を歪めるもの、即ち想像界Iと象徴界Sの風変わりな諸改変と関わっている。この風変わりな諸改変は現実(réalité )を想像界と象徴界の食い違いへと縮減している。
我々はここで、主体[=患者]にとって我々が何であるのかという問いについて長々と話すことはできない。しかし、その問いは知るべき重要な問いである。シュレーバーから読者として訴えかけられている我々は、彼と、彼の本が最初に捧げられている彼の妻との関係から何が残ったのかという問いについても、長々と語ることはできない。シュレーバーが発症していた間、彼の妻の訪問は常に大変激しい感激によってもてなされた。シュレーバーが、大変決定的な彼の妄想的使命についての彼の告白と共に我々に断言することには、[シュレーバーは]彼の妻を「変わることなく昔と同じように愛して」いたのである。(S. note de p. 179-XIII, 邦訳p.147,注76)
シェーマIにおけるS,a,a´,Aの軌跡[訳注:これはシェーマLをたどった軌跡である。]を保持することは、以下の見解をシェーマIにおいて象徴化している。この症例の検討を通じて我々が、その見せかけとしての小文字の他者との関係を見出したということ、またアリストテレスが婚姻関係の本質であるとした意味での友愛にまで高められた関係でさえも、大他者との関係がねじれること(désaxement)、またこの大他者との関係のねじれがもたらすあらゆる特異性と完全に両立するという見解である。こうしたものは、不適切ではあったが間違いなく何らかの接近の効果があった、昔の臨床において、”部分妄想( délire partiel)”によって評価されたのである。
しかしもし、直観的なイメージの中で、このイメージを支えている分析を忘れてしまう人々に対してこのシェーマが役にたつのなら、このシェーマは屑籠に入れてしまった方が良いだろう。
実際このことについて考えるだけで、人々はどのようにして対話者、イダ・マカルピン女史―最終的に、我々は彼女の反省を本当の反省であると称える―が、唯それについて我々が構成したシェーマについて誤認するだけで、そこで説明を見出したのかについて気づくだろう。
狂気のドラマを認識する事を通じて我々がここで断言するのは、理性は自分の好きなことをしているということ、―即ち sua res agitur―である。何故なら、この狂気のドラマが位置するのは、まさに人間とシニフィアンとの関係においてであるからだ。
精神病に伴う妄想について人々が想起するであろう危険は、フロイトを怖気づかせなかったように、我々を怖気づかせるものではない。
我々が回帰する点は、(後に、我々が何故この点を10年間も宙吊りのままにして置いたのかを理解する役目を、我々を研究する人々に残しておく。)アンリ・エーと我々の対話における発言である(原注9)。«人間存在は狂気なしでは理解されることがあり得ないだけではない。もし人間が自身の内に狂気を自身の自由の限界として持っていなければ、人間存在であることもできないだろう。»
原注
原注1
Macalpine, op. cit., p. 398.
原注2
ユーグ・サレルによるイーリアスの最初の10歌の見事な翻訳において実際に使用されている英語の正書法は、フランス語においても従うに足るものである。
原注3
Die symbolische Gleichung Mädchen = Phallus[少女=ファルスという象徴的等式], in Int. Zeitschrift für Psychoanalyse, XXII, 1936, は以下のタイトルのもとで翻訳されたhe symbolic equation : Girl = Phallus dans le PsycboanalyticQuarterly, 1949, XX, vol. 3, PP- 303-324. 我々の言語はこの言葉(Mädchen )を処女( pucelle)という我々の考えにおいてより適切な用語へと翻訳することができる。
原注4
1. Cf. Niederland (W. G.) (t95t), "Three Notes on the Schreber Case", Psychoanal. Quarterly, XX, 579.Édouard Pichonはこの用語[=flüchtig hingemachte Männer]をフランス語に以下のように翻訳した作家である。へのへのもへじのいい加減な人々の影(Ombres d'hommes bâclés à la six-quatre-deux)
原注5
Jean-Marc Albyの大変傑出した学位論文を参照のこと。「 Contribution à l'étude du transsexualisme」,Paris, 1956.
原注6
フロイト全集11,p.127,注23[ここではseligが「死せる」と「幸福な」という両極端な意味を持つことを指摘している。ここで「わが死せる(seliger)父」についてものべられているが、次の段落と繋がるのかもしれない]
原注7
フロイト全集11, p.148と原注40
原注8
想像的妄想が頂点に達した時、主体はその妄想的統覚の中にある、現実性の基準に奇妙にも頼って見せたのである。[その現実性の基準とは、]常に同じ場所に回帰するということである。そしてこれが、星々が著しく現実を表象している理由である。このモティーフは「天体への接合(arrimage aux terres, Anbinden an Erden)」という名の下に、シュレーバーの声によって指し示されたのである。
原注9
心的因果性について(1946年9月28日ボンヌヴァル会議での報告)本書p.151
訳注
訳注1
回想録において Vorhöfeという語は必ずHimmelとセットで出てくる。つまり「天上界の前殿」として出てくる。また郁文堂独和辞典にはVorhofの項に膣という意味はなかった。
訳注2
注88:「いまいましい奴め」なる言葉は、ここでは決して悪意の籠った感じを持っていない。そうではなく反対に、すでに基本の言葉の場合がそうであったように、喜ばしい賞賛或いは敬意に満ちた驚嘆の言葉なのである。
訳注3
しかし今や、私が個人的に好むと好まざるとにかかわらず、世界秩序が有無を言わさずに脱男性化を欲しているということ、そして私には、理性の根拠からして(aus Vernunftgründen)、ひとりの女に変身するという思想に親しむ以外に何も残されていないことが疑う余地もなく私に自覚されたのである。
訳注4
私には悲しいことであるが、しかし[女性への転換という考えに没頭することは]これを変更することはできない。
訳注5
S.381に見られるような器官快楽を批判している箇所のことを指していると思われる。
As it stands today the concept[=ここが具体的に何を指しているのか、よくわからないが、器官快楽のことであるように思われれる。] is unacceptable and useless, the theory of damming up of libido in one organ has not led to deeper insight, but merely to a barrage of such terms as organneurosis, pregenital conversion, and erotization of organs.
訳注6
我々はまずさっそく処方された睡眠薬を薬局に取りに行き、それから母の家で母と共に食事を摂り、(中略)その結果、三時に(母の家の)ベッドに就くことはもちろんできず、(私の妻が受けた秘密の指導に応じてであろうが)就寝は九時まで遅れてしまった。(中略)私はその間に再び不安状態の中で、手拭いのようなものを手段として一種の自殺企図を行う目的でベッドを離れたが、それを承知していた妻が私を阻止したのである。
訳注7
回想録にVersohnungという言葉は見つけられなかった。恐らくS61のAusglichのことだろうか?フロイトはVersöhnungを用いている。以下の引用を参照
Wir wissen bereits, daß der Fall Schrebers zu Anfang das Gepräge des Verfolgungswahnes an sich trug, welches erst von dem Wendepunkte der Krankheit an (der „Versöhnung") verwischt wurde.
症例シュレーバーにおいて、初めは迫害妄想が特徴的であり、この妄想は、病気の転回点(「和解」[=Versöhnung])によってようやく曖昧になり消えていった事実をわれわれはすでに知っている。
訳注8
フロイトのシュレーバー論「自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察」は1911年、「ナルシシズムの導入に向けて」は1914年である。(フロイト全集別巻、p.370~374、参照)
訳注9
同じ理由から[=寒冷と熱を自分から求めることによって、光線を凍えている肉体の部位へと転向させ、これによって光線の意図的かつ侵害的な影響から頭部を保護するという理由から]私は暫くの間(1895年の春か秋の頃)夜間にしばしば両足を開け放たれた窓の行使の間を通して外に突き出し、冷たい雨に曝した。私がそうしている限り、光線は、私にとって当然のことながら特別に重要であった頭部に到達することができなかったし、それゆえ私は、足の冷感を度外視するならば、全く快適であった。
訳注8
seligというラテン語は私が調べた範囲では見つからなかった。そのため、この翻訳が訳を間違えているかもしれない。
訳注9
人間の性的器官を備えた存在としての神が、その体内からイエス・キリストが生まれてきた女性と交渉していたのだ、などとは誰も主張しないであろうからである。
訳注10
たとえば、処女による―つまり、一度も男性と交わったことのない若い女性による―イエス・キリストの受胎に似たようなことが私自身の肉体で起こったのである。私は、(そして、しかも、私がまだフレヒジヒの精神病院にいた当時に)すでに二度に渡って、確かに多少とも不完全にしか発達していないようなものではあったが、女性性器を持ったし、また、私の腹の中に、ちょうど人間の胎児の最初の生命活動に対応するような、跳びはねるような運動を感じた。神の奇蹟によって、男性の精子に当たる神の神経が私の腹の中へ投げ入れられ、そうして、受胎が起こったのである。
訳注11
Vers Freudに於ける、~ laquelle conception se manifeste en un catalogue de pensées qui n'est pas indigne d'un livre de psychologie classique.以下の箇所と対応する。
訳注12
世界の衰退は原文では「crépuscule du monde」であるが、独訳では「Weltdämmerung」となっている。世界没落体験のことを指しているように思われるが、ドイツ語で世界没落体験はWeltuntergangserlebnisである。