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作品をつくって、まっすぐに信じて

 作品をつくることは、自分の気持ちをめちゃめちゃに込めて、ときに自分と向き合って深い深い部分を晒す必要があるので、とにかくめちゃめちゃに恥ずかしい。いま、こうして書いているときは、作品をつくるような感覚を持つのだけれど、書いたものは作品というよりやっぱり雑な殴り書きであり、一般的に作品と呼べる代物でもない、なんて思ってしまう。ここに一般論を介入させる時点で、他人からの評価が気になってしょうがない自分が垣間見えて、腹が立つ。

 だからといって、作品だと自分が意識しなければ、こうして書いていくのはもっと難しくなってしまいます。だって、作品でなければ、どこかの誰かの時間を奪って、読んでもらう必要性がなくなってしまう、と思うからです。それは日記で十分です。

 書くと、読んだ人の世界に少しだけお邪魔することができます。わたしが気持ちというか、どちらかというと魂みたいなもの込めて書くと、それはソロソロと音を立てずに読む人の世界に忍び込んでしまう。わたしが読書をしていると、書いた人がわたしに入り込んでくる感覚があって、例えるなら同じこたつで、1番離れたところにいて、同じ温度を共有しているような。
 そのこたつの中で、互いの足先が当たってそれから絡み合ってちょっかいを出し合う、みたいなことにはならないし、なりたくもない。互いの距離感を保って、共有するのは同じ温かさで、空気を伝う波だけが触れ合えるみたいな世界。

 でも、こたつに入る人は誰でもいいかと問われると、そうではない。本を読んでいると、豪快な足音で入り込もうとする人もいて、それは多分わたしと相性が合わない。自分の想いをただ信じて貫いてぶつける文章は基本的に気持ちがいい。一方で借りた言葉だけを並べているのは、好きではない。ほとんどが借り物みたいな世界なんだから、それをどう捉えてどう編集したのかが聞きたい。あなたは何を信じるの?

 わたしは、こうして書くことを通して、自分や世界と向き合うわけだけれど、やっぱりこうしている間は作品をつくっているという感覚が抜け落ちることはない。作品というベールを覆っていなければ、壊れかけの自分と世界と向き合って、向き合ったことを誰かに伝えるなんて怖すぎる。それはあまりにも脆いし、その脆さだけではクエストに挑めない。ただ、わたしが見ている世界は他人と違う世界で、絶対的に伝える価値があると信じている。じゃないと作品は書けないでしょ。

シンデレラベールを纏ったままにして白んだ光アイ・ランデブー

 書いていると、それはドロドロした沼に自ら足をつけるような行為だと実感します。でもやっぱり書けば書くほど、この混沌とした世界に正解はなくて、信じたい星が光るみたいな、そういう単純なことな気がしています。その信じたい星が見つかったときが、幸せに近づくことなんだと思う。信じ続けるのは、ときに疲弊するけれど、まっすぐで眩くて、これ以上ない尊さを孕んでるとわたしは信じている。

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