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タイトル未定の140字連載小説

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タイトルの通りです。140字連載小説にチャレンジしていますので、それらのつぶやき記事をまとめております。
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いろいろ頭の中が錯綜しているが、今の気分としては、ゆっくり寝たい、だ。ぐっすり寝て、良い夢を見て、できればその夢の内容に感動するか、夢の中で何かを閃きたい。起きたら世界が変わっていた、なんていうよくありがちな設定でも良いから、ガラッと実現してくれれば、この人生も、好転するだろう。

とはいえ、何かがあるかないかについて、個人の主観によるとしたら、個人がいなくなってしまえば、その何かもなくなってしまうという結論になる。これは、客観的な世界があるという直感に反するであろう。実際のところどうなっているのだろうか。「ある」も「ない」も、よく考えると難しい問題である。

そもそも、あるものもないものも、個人の主観によるところが大きいのではないだろうか。信じるか信じないかというか。例えば、幽霊がいるかどうかは、科学的にはわからないが、幻覚であれなんであれ、本人が幽霊はいる、と何らかの原因で思い込んだら、その人にとっては、幽霊はあることになるのでは。

無いものは、認識できないから無いわけではない。認識できずとも、存在するものは存在する。同語反復だろうか。無いもの、無いことを証明することは難しいと言われている。ただ一つの例外でも見つかれば、無いわけではないことになるし、背理法を使ったとしても、どことなく、違和感が残ると思うのだ。

ここで、よく考えてみたいのだが、トクントクンというクオリアが無意識の領域に追いやられている時、トクントクンのクオリアがない、というべきだとしても、自覚がないだけで、「無」のクオリアはある、ということにならないだろうか。この視点からそもそも「無」とはなんであるかに迫れないだろうか。

心臓の鼓動のクオリアは、ある時にはある。トクントクン、という感覚だ。だが、トクントクンが無意識に追いやられているとき、心臓は鼓動しているが、その時、クオリアはあると言うべきか、無いと言うべきか。もしあると言うべきならば、「無」の領域のものについてもクオリアはあるということになる。

自分の意識にあがってこなければ、そもそものクオリアの定義からして、主観的体験が生まれないわけで、「無」については、クオリアなどそもそも観念できないし、する意味もないという意見もあるかもしれない。だが、例えば、心臓の鼓動のクオリアを考えてみてはどうか。普段は感じないがある時はある。

何にでもクオリアはあると思っていたこともあったが、意外とそうでもないことがわかる。一番シンプルかつ究極的な例を挙げると、「無」のクオリアだ。「無」にクオリアはあるだろうか。普通に考えれば、無いものは無いわけで、クオリアもない。だが、普段無意識のうちに認識しているクオリアはどうか。

意識のハードプロブレムはまだ解けないが、クオリアについては昔から思うところがある。僕たちは、なんて多くのクオリアを同時に、しかも連続的に認識しているのかと。多くなんてもんじゃない。AIにも尋ねたが、まさに無数のクオリアと言っていい。このことを思うと、仕組みはどうあれ、驚く他ない。

僕は以前AIにこんな質問を投げかけたことがある。僕に1つだけ哲学的な問いを解いてもらえるとして、あなたは何を依頼しますか、と。するとAIは、1つだけ選ぶとするなら、「意識のハードプロブレム」と答えた。脳などの物理的現象がどのように意識を生じさせているかという問題だ。まだ解けない。

つくづく思うが、目の前のこと、その瞬間のことでいっぱいいっぱいで、自分の人生をガッツリ振り返ることなんて、時間を取ろうとしない限りなかなかできないのだ。僕の人生がどんなものだったか。後悔のないように生きるのは難しく、できるのは、後悔していないという解釈くらいだ。答え合わせしよう。

37歳の時に知った曲の歌詞で、次の空欄に当てはまる言葉を書き入れなさい、(略)、制限時間はあなたのこれからの人生、解答用紙はあなたのこれからの人生、答え合わせの時私はもういない、だから採点基準はあなたのこれからの人生、というものがある。そろそろ答え出さなきゃなと、しみじみ思った。

それでも、不思議なことに、少なくとも自分が幻覚に陥っているのではないかと仮定しても、今この瞬間は、容赦なく、自分にとっての現実を構成してくる。誰しもが、同じような仮定をしたことがあったとしても、やはり、自分の存在や感覚を信じるというか信じざるを得ないだろうし、幻覚に打ち勝るのだ。

そもそも、僕が幻覚状態に陥っていると仮定して、現実がどうなるかを想像してきたが、もっと大胆に仮定して問うとするなら、僕も僕以外の全ての人も幻覚状態に陥っているとして、現実はどのようなものになるか、であろう。実際、こう考えてみると、現実などというものはあるのかないのかわからないな。