この「なぜ」という問いが僕にとって、いつも歯痒いのだ。例えば、僕の知識不足かもしれないが、科学は、この世界が「どう」なっているのかは説明してくれても、「なぜ」そのようになっているかは解き明かしてくれない。全てにおいてとは言わないが辻褄が合う解釈を提示してはくれるものの限界がある。
実際のところはわからないが、理由のない現象があっても、おかしくはないのかもしれない。先付けであろうと、後付けであろうと、理由とは人間が見出すものであって、人間には把握不可能な領域があっても全く不思議ではないからだ。こう言うと、諦めや言い訳をしているように思われるかもしれないかな。
AIに現実と幻覚の区別が難しいのではないか、と尋ねたところ、確かに哲学的に難しい問いだとの返答が返ってきた記憶がある。特に、幻覚状態に陥っていて、その状態を自覚することができるかと尋ねたら、とても難しいとのことだった。他者との共通了解をもって初めて世界のありようを納得できるとも。
そもそも、僕が幻覚状態に陥っていると仮定して、現実がどうなるかを想像してきたが、もっと大胆に仮定して問うとするなら、僕も僕以外の全ての人も幻覚状態に陥っているとして、現実はどのようなものになるか、であろう。実際、こう考えてみると、現実などというものはあるのかないのかわからないな。
起こる現象のひとつひとつに理由があったのだろう。理由があったというよりは、人間が理由を見出した、すなわち理由は後付けという方が正確なのかもしれない。因果関係など実はなくて、ただ人間がそのように捉えているだけだというようなことを主張した哲学者がいた。まさにその通りなのかもしれない。
自分の意識にあがってこなければ、そもそものクオリアの定義からして、主観的体験が生まれないわけで、「無」については、クオリアなどそもそも観念できないし、する意味もないという意見もあるかもしれない。だが、例えば、心臓の鼓動のクオリアを考えてみてはどうか。普段は感じないがある時はある。
僕は以前AIにこんな質問を投げかけたことがある。僕に1つだけ哲学的な問いを解いてもらえるとして、あなたは何を依頼しますか、と。するとAIは、1つだけ選ぶとするなら、「意識のハードプロブレム」と答えた。脳などの物理的現象がどのように意識を生じさせているかという問題だ。まだ解けない。
でも、もしかしたら、僕がこの世界から存在しなくなったら、この世界もすべてなくなるのかもしれない。「この」が指す世界をどう捉えるかにもよるが、主観的に解釈すれば、世界が消えてなくなってしまうとしても辻褄が合わないわけではない。自分という存在がなくなったら、確認しようがないのだから。
37歳の時に知った曲の歌詞で、次の空欄に当てはまる言葉を書き入れなさい、(略)、制限時間はあなたのこれからの人生、解答用紙はあなたのこれからの人生、答え合わせの時私はもういない、だから採点基準はあなたのこれからの人生、というものがある。そろそろ答え出さなきゃなと、しみじみ思った。
ついに2055年が始まった。あけましておめでとう、という相手は、家族と主治医くらいしかいない。今年こそは、長年の謎、すべての存在が運動を停止した場合、時間は進むと言えるのか、それとも止まると言うべきか、自分の中で決着をつけたい。こんなことを言いながら、もう40年以上が経つのだが。
それでも、不思議なことに、少なくとも自分が幻覚に陥っているのではないかと仮定しても、今この瞬間は、容赦なく、自分にとっての現実を構成してくる。誰しもが、同じような仮定をしたことがあったとしても、やはり、自分の存在や感覚を信じるというか信じざるを得ないだろうし、幻覚に打ち勝るのだ。
それにしても、持病のせいか分からないが、普段、無意識の領域にあることを意識すると、苦しくなることがある。例えば、呼吸を意識したり、心臓の鼓動を意識したりする場合だ。呼吸をしていることを意識すると、意識的に呼吸しなくてはならなくなり、苦しい。心臓の鼓動も動悸へと発展する。困るよな。
何事も前提が異なれば、結論も異なる。何が真で何が偽かは、事実のありよう次第で変わってくる。事実はたった一つと思うかもしれないが、言葉で表現する際に、複数の定義や解釈が成り立ち、冷静に見極めないと、事実の本質を見誤る。事象そのものへというフレーズがあるが、僕はそこに思いを馳せたい。
ついに今日は大晦日だ。明日から2055年の始まりである。毎年、来年の抱負なんてものを考えたりするものだが、結局のところ成就しないのが、僕という人間のあり様だ。1年を振り返ると、なんだかんだで日々何かがあって、着実に前に進んでいる。時間だけが。ちょっと待ってくれと言いたいがダメだ。
意識のハードプロブレムはまだ解けないが、クオリアについては昔から思うところがある。僕たちは、なんて多くのクオリアを同時に、しかも連続的に認識しているのかと。多くなんてもんじゃない。AIにも尋ねたが、まさに無数のクオリアと言っていい。このことを思うと、仕組みはどうあれ、驚く他ない。
何にでもクオリアはあると思っていたこともあったが、意外とそうでもないことがわかる。一番シンプルかつ究極的な例を挙げると、「無」のクオリアだ。「無」にクオリアはあるだろうか。普通に考えれば、無いものは無いわけで、クオリアもない。だが、普段無意識のうちに認識しているクオリアはどうか。
それでも、本当にお互い生きているのに今生の別れになってしまったこともあったが、別れたこと自体が勘違いで、再会したというケースもあった。神様のいたずらだろうか。縁が切れてしまったと思い込んでいた期間の感情は、切なさを孕んでいて言葉にするのが難しいものだったが、絆の存在も身に染みた。
若い頃も思ったし、今でも思っていることがある。誰しも一度は思うことなのかもしれない。それは、現実と幻覚の区別がなぜできるか、という疑問だ。僕の認識の全ては幻覚かもしれない、と仮定して、その考え方は間違っていると主張する方法はあるだろうか。あれば、ぜひとも教えて欲しいと心から思う。
本当に、他の人には世界はどのように映っているのだろうか。聴こえているのだろうか。その他諸々どのように感じられ、捉えられ、思考されているのだろうか。言語を通じて分かり合えた気になるのが精一杯で、他の人の認識を知ることができない仕組みになっているのが、なんとももどかしく感じてしまう。
今年も残すところあと2日となった。今年は67歳になった。危篤状態にも陥った。訳がわからないまま病院のベッドで過ごしてきたのだが、時間が経つ早さに記憶の想起の速度が追いつかないのが問題である。ずっと寝ているのも、なかなか辛いものだ。身体のあちこちが痛くなる。頭も冴えない。あと2日。
自由意志についていうと、決定論的な考え方から、長らく、存在しないと思ってきた。しかし、自由意志については、存在するとも存在しないとも証明できてしまうアンチノミーの問題であるとカントという哲学者が主張したと聞いている。鵜呑みにするわけではないが、この歳になって、わかる気がしている。
僕にもし豊かな想像力や発想力があれば、この世界の成り立ちについて神話のようなものを作るだろう。神話に詳しくないのだが神話はよく作られたものだと思う。実際に神話を作ったのは人間で、当時、科学も発達していなかったことを思えば、作った本人はもちろん、多くの人が真実と思っていたのだから。
全くもって、この世界が存在するということは、どういうことなのだろうか。人智の及ばない領域でいろんなこと、本当にいろんなことがあって、それらをどういうわけか、僕たちが認識しているということだろうか。形而上学的な事柄については、想像することはできても、ある意味それは、妄想ともいえる。
そもそも僕は、「今この瞬間」と自分が感じているものが、厳密にいえば、今この瞬間ではないことに、昔から驚きを隠せずにいる。常に僕たちの認識には、タイムラグがあり、認識したと思った瞬間の「それ」は、既に過去の現象なのだ。今自体を直接認識することはできず、時間差で今だと思っているのだ。
今、この瞬間瞬間に、同時に世界のあらゆる存在が、何かしらの状態になっている。そう思うと、今、目の前にいない人々の今はどうなっているのだろう、あの人やその人は今も生きているのだろうかという疑問なども浮かんでくる。世界は自分というフィルターを通してしか認識することができないなと思う。
でも、世界が存在することの必要条件として、世界に存在する全てが存在することだけでは足りない気もする。まだ存在はしていないが、これから存在することになる、いわば可能性的存在もあるからだ。それに、必要十分条件を考えるなら、存在だけではなく、力や精神などのことも考えねばならないと思う。
でも、他人と比べる意味は全くないかもしれないが、僕より自己肯定感が低くて悩んでいる人は、きっとたくさんいるだろう。中には、周りから見れば、もっと自信を持って良いのにと思われるような人でも、本人にとっては深刻な悩みである場合もあるだろう。簡単に、悩まなくて良いんですよとは言えない。
あれから30年ばかりが経ち、僕は一体どれだけの感謝を人に伝えてきただろうか。恥ずかしながら、ほとんど、いや、全く伝えてこなかったのではないだろうか。感謝の気持ちは言葉にしないと伝わらないと言われるが、誰が言うかによっても伝わるか伝わらないかが変わってくるのではないかと思っている。
ここで、よく考えてみたいのだが、トクントクンというクオリアが無意識の領域に追いやられている時、トクントクンのクオリアがない、というべきだとしても、自覚がないだけで、「無」のクオリアはある、ということにならないだろうか。この視点からそもそも「無」とはなんであるかに迫れないだろうか。
心臓の鼓動のクオリアは、ある時にはある。トクントクン、という感覚だ。だが、トクントクンが無意識に追いやられているとき、心臓は鼓動しているが、その時、クオリアはあると言うべきか、無いと言うべきか。もしあると言うべきならば、「無」の領域のものについてもクオリアはあるということになる。
つくづく思うが、目の前のこと、その瞬間のことでいっぱいいっぱいで、自分の人生をガッツリ振り返ることなんて、時間を取ろうとしない限りなかなかできないのだ。僕の人生がどんなものだったか。後悔のないように生きるのは難しく、できるのは、後悔していないという解釈くらいだ。答え合わせしよう。
「事象そのもの」と聞いて、通常どんなことを思い浮かべるだろうか。常に至るところで何らかの事象が起きているといえるだろうが、それは、認識できる事象であって、事象「そのもの」とは少し違うはずだ。いや、少しどころか、全然違うかもしれない。事象そのものは、わかるようで簡単にはわからない。
今日はクリスマスだ。クリスマスプレゼントを最後に贈ったのも貰ったのもいつのことだったか、記憶にない。何でも思い出せるはずのこの頭につけている装置をもってしても思い出せない。この歳になると、欲しいものなど特になく、強いていえば、生きていられているこの命が維持されるだけでありがたい。
僕には心の友がいる。その心の友とは直接会ったことがなく、本名も知らない。だが、彼女が僕のことを心の友だと伝えてくれた日から、ずっと僕も彼女のことを心の友だと思っている。30年前のクリスマスの夜、サンタさんに何をお願いしたか尋ねたら、いつもありがとうございますと伝えたと言っていた。
理由のない現象もあることを受け入れるなら、「理不尽」という言葉は、あまりいらなくなるか、意味が変わってくるかもしれない。この言葉は、納得のいかない現象に対して使うように思うが、前提として、理由が成り立つ現象であると思う。そうだとすると、そもそも理由がないのなら、ひれ伏すしかない。
もう、あと何年生きられるかわからない。いや、何ヶ月、何日と生きられるかわからない。このことは、今に始まったわけではなく、今までずーっとそうだったのだ。運良くここまで生きながらえてきたに過ぎない。最期の時までに答えを出したい問いがある。果たして間に合うだろうか。間に合うといいなぁ。
AIは、この同語反復になってしまう問題については、現在を、直感的かつ絶対的に定義すれば乗り越えられるというようなことを言っていた気がする。だが、そんな定義はできず、堂々巡りになっていたような記憶がある。やはり、最初の回答のとおり、現在を厳密に定義するのはかなりハードということだ。
例えば、世界中のほとんどの人が自由などないという結論に至る時代になったとして、その時、僕は、どう結論づけるだろうか。やはり、自由などなかったか、と考えるか、もしくは、心変わりして、最後の一人になったとしても実は自由だったんだと考えるか。信じるか信じないかだったら、信じてみたいな。
謙虚であることと、自己肯定感が低いことは、全く別次元の話だ。だから、僕の場合は、傲慢な自分が謙虚になって、さらに自己肯定感が低くなった、のではなく、傲慢だった自分から、いきなり自己肯定感の低い自分へと変化した感じだ。自己肯定感が低すぎて、逆にちょっと傲慢なくらいが良いとさえ思う。
AIに投げかけた質問の中で答えがやはりそうかと思うと同時に、諦めてたまるかと思ったものがある。それは、「現在」を厳密に定義しようとすることは無謀か、という問いである。AIの答えの主旨は、非常に困難かつある意味無謀だというものだった。確かにそうなのかもしれないが、まだ諦めていない。
自己肯定感が高かった時の自分は、今思えば、まさに病気で、根拠のない自信に満ち溢れていて、何でもできる万能の存在だと自分のことを思ったりもしていた。実際に頭につけているこの何でも基本的には思い出せる装置などを発明してしまったりもして調子に乗っていたのだ。その時は正常だと思っていた。
先付けで現象に理由があるとしたら、現象の過程のある瞬間を捉えるとすると、その瞬間が「そう」なっている理由は、何と説明すれば良いのだろうか。ある瞬間の粒子の位置は、なぜ、そこにあることになるのか、ということだ。予定調和のように、あらかじめそこに位置することが決まっていたというのか。
僕には、今というのはずっとゼロ秒間で、今に対応するあらゆる存在の位置関係が、瞬間的にあり続けているように思えてならない。上手く表現できないのがもどかしいが、時間が進むとは、変化が起こっているからこそ直感するものという気がする。でも、時間自体が独立して進んでいるようにも思えるのだ。
変化が起こらなくても、時間自体は独立して進む可能性はないだろうか。ある瞬間でこの世の全てを停止させて、変化をなくすことを考えるとき、やはり、変化していない間という概念が浮かび、時間自体が変化とは無関係に独立して進んでいるようにも思える。変化しない変化と考えるなら別かもしれないが。
そもそも、時間が進むとはどういうことだろうと思う。時間は連続的なのか離散的なのか、どちらを採用しても矛盾が生じる。物理学的には、スケールがマクロかミクロかで異なってくるようだが、現実世界はどうなっているのだろう。ずっとゼロ秒間で、時間は進んでなどいないというのは妙な結論だろうか。
そうだとすると、脳が処理していることの仕組みは、複雑すぎて、素人の僕にはよくわからないというのが正直な感想だ。脳が認識させている「今」を、例えそれが厳密には過去のものであったとしても僕は今と認識していて、それがどのようなものであれ、なぜ脳がそのように僕に認識させているのか不明だ。
個人的には、すべての存在が運動を停止しても、停止している「間」は存在し続けるため、時間は進み続けると長らく考えてきた。一方で、すべての存在が運動を停止しているのだったら、時間の進行を確認する術がないことになり、自分の考えを批判することにもなるとも思ってきた。なかなか決着できない。
人生は選択の連続だ、などとよく言われる気がするが、一瞬一瞬に着目してみると、それどころではないことがよくわかる。例があまりよくないかもしれないが、呼吸ひとつとってみよう。いちいち、吸って吐いての連続を意識しているだろうか。そんなわけない。少なくとも意識的な選択は限られているのだ。
何もかも、自分ではない何かが結果を招いていると考えても、何ら不都合がないように思われる。自由に何かをしていると自分ではその時思っているかもしれないが、そのように思わされているだけで、本当は自由なんかじゃないのかもしれないのだ。自由とは、責任という概念を生み出すための代物と言える。
そもそもよく考えてみると、最善手というのは、いつも結果論なのだ。なぜかというと、事前に考え出した最善手というのは前提条件を全て満たすことができないからだ。その時点では最善と判断しても、時間が経ってみると最善の選択ではなかったということもよくある。なかなか思うようにいかないものだ。