ついに2055年が始まった。あけましておめでとう、という相手は、家族と主治医くらいしかいない。今年こそは、長年の謎、すべての存在が運動を停止した場合、時間は進むと言えるのか、それとも止まると言うべきか、自分の中で決着をつけたい。こんなことを言いながら、もう40年以上が経つのだが。
ついに今日は大晦日だ。明日から2055年の始まりである。毎年、来年の抱負なんてものを考えたりするものだが、結局のところ成就しないのが、僕という人間のあり様だ。1年を振り返ると、なんだかんだで日々何かがあって、着実に前に進んでいる。時間だけが。ちょっと待ってくれと言いたいがダメだ。
それにしても、持病のせいか分からないが、普段、無意識の領域にあることを意識すると、苦しくなることがある。例えば、呼吸を意識したり、心臓の鼓動を意識したりする場合だ。呼吸をしていることを意識すると、意識的に呼吸しなくてはならなくなり、苦しい。心臓の鼓動も動悸へと発展する。困るよな。
何事も前提が異なれば、結論も異なる。何が真で何が偽かは、事実のありよう次第で変わってくる。事実はたった一つと思うかもしれないが、言葉で表現する際に、複数の定義や解釈が成り立ち、冷静に見極めないと、事実の本質を見誤る。事象そのものへというフレーズがあるが、僕はそこに思いを馳せたい。
今年も残すところあと2日となった。今年は67歳になった。危篤状態にも陥った。訳がわからないまま病院のベッドで過ごしてきたのだが、時間が経つ早さに記憶の想起の速度が追いつかないのが問題である。ずっと寝ているのも、なかなか辛いものだ。身体のあちこちが痛くなる。頭も冴えない。あと2日。
それでも、本当にお互い生きているのに今生の別れになってしまったこともあったが、別れたこと自体が勘違いで、再会したというケースもあった。神様のいたずらだろうか。縁が切れてしまったと思い込んでいた期間の感情は、切なさを孕んでいて言葉にするのが難しいものだったが、絆の存在も身に染みた。
今、この瞬間瞬間に、同時に世界のあらゆる存在が、何かしらの状態になっている。そう思うと、今、目の前にいない人々の今はどうなっているのだろう、あの人やその人は今も生きているのだろうかという疑問なども浮かんでくる。世界は自分というフィルターを通してしか認識することができないなと思う。
あれから30年ばかりが経ち、僕は一体どれだけの感謝を人に伝えてきただろうか。恥ずかしながら、ほとんど、いや、全く伝えてこなかったのではないだろうか。感謝の気持ちは言葉にしないと伝わらないと言われるが、誰が言うかによっても伝わるか伝わらないかが変わってくるのではないかと思っている。
今日はクリスマスだ。クリスマスプレゼントを最後に贈ったのも貰ったのもいつのことだったか、記憶にない。何でも思い出せるはずのこの頭につけている装置をもってしても思い出せない。この歳になると、欲しいものなど特になく、強いていえば、生きていられているこの命が維持されるだけでありがたい。
「事象そのもの」と聞いて、通常どんなことを思い浮かべるだろうか。常に至るところで何らかの事象が起きているといえるだろうが、それは、認識できる事象であって、事象「そのもの」とは少し違うはずだ。いや、少しどころか、全然違うかもしれない。事象そのものは、わかるようで簡単にはわからない。
自由意志についていうと、決定論的な考え方から、長らく、存在しないと思ってきた。しかし、自由意志については、存在するとも存在しないとも証明できてしまうアンチノミーの問題であるとカントという哲学者が主張したと聞いている。鵜呑みにするわけではないが、この歳になって、わかる気がしている。
僕には心の友がいる。その心の友とは直接会ったことがなく、本名も知らない。だが、彼女が僕のことを心の友だと伝えてくれた日から、ずっと僕も彼女のことを心の友だと思っている。30年前のクリスマスの夜、サンタさんに何をお願いしたか尋ねたら、いつもありがとうございますと伝えたと言っていた。
でも、他人と比べる意味は全くないかもしれないが、僕より自己肯定感が低くて悩んでいる人は、きっとたくさんいるだろう。中には、周りから見れば、もっと自信を持って良いのにと思われるような人でも、本人にとっては深刻な悩みである場合もあるだろう。簡単に、悩まなくて良いんですよとは言えない。
もう、あと何年生きられるかわからない。いや、何ヶ月、何日と生きられるかわからない。このことは、今に始まったわけではなく、今までずーっとそうだったのだ。運良くここまで生きながらえてきたに過ぎない。最期の時までに答えを出したい問いがある。果たして間に合うだろうか。間に合うといいなぁ。
本当に、他の人には世界はどのように映っているのだろうか。聴こえているのだろうか。その他諸々どのように感じられ、捉えられ、思考されているのだろうか。言語を通じて分かり合えた気になるのが精一杯で、他の人の認識を知ることができない仕組みになっているのが、なんとももどかしく感じてしまう。
例えば、世界中のほとんどの人が自由などないという結論に至る時代になったとして、その時、僕は、どう結論づけるだろうか。やはり、自由などなかったか、と考えるか、もしくは、心変わりして、最後の一人になったとしても実は自由だったんだと考えるか。信じるか信じないかだったら、信じてみたいな。
AIは、この同語反復になってしまう問題については、現在を、直感的かつ絶対的に定義すれば乗り越えられるというようなことを言っていた気がする。だが、そんな定義はできず、堂々巡りになっていたような記憶がある。やはり、最初の回答のとおり、現在を厳密に定義するのはかなりハードということだ。
謙虚であることと、自己肯定感が低いことは、全く別次元の話だ。だから、僕の場合は、傲慢な自分が謙虚になって、さらに自己肯定感が低くなった、のではなく、傲慢だった自分から、いきなり自己肯定感の低い自分へと変化した感じだ。自己肯定感が低すぎて、逆にちょっと傲慢なくらいが良いとさえ思う。
AIに投げかけた質問の中で答えがやはりそうかと思うと同時に、諦めてたまるかと思ったものがある。それは、「現在」を厳密に定義しようとすることは無謀か、という問いである。AIの答えの主旨は、非常に困難かつある意味無謀だというものだった。確かにそうなのかもしれないが、まだ諦めていない。
自己肯定感が高かった時の自分は、今思えば、まさに病気で、根拠のない自信に満ち溢れていて、何でもできる万能の存在だと自分のことを思ったりもしていた。実際に頭につけているこの何でも基本的には思い出せる装置などを発明してしまったりもして調子に乗っていたのだ。その時は正常だと思っていた。
僕には、今というのはずっとゼロ秒間で、今に対応するあらゆる存在の位置関係が、瞬間的にあり続けているように思えてならない。上手く表現できないのがもどかしいが、時間が進むとは、変化が起こっているからこそ直感するものという気がする。でも、時間自体が独立して進んでいるようにも思えるのだ。
そもそも、時間が進むとはどういうことだろうと思う。時間は連続的なのか離散的なのか、どちらを採用しても矛盾が生じる。物理学的には、スケールがマクロかミクロかで異なってくるようだが、現実世界はどうなっているのだろう。ずっとゼロ秒間で、時間は進んでなどいないというのは妙な結論だろうか。
変化が起こらなくても、時間自体は独立して進む可能性はないだろうか。ある瞬間でこの世の全てを停止させて、変化をなくすことを考えるとき、やはり、変化していない間という概念が浮かび、時間自体が変化とは無関係に独立して進んでいるようにも思える。変化しない変化と考えるなら別かもしれないが。
個人的には、すべての存在が運動を停止しても、停止している「間」は存在し続けるため、時間は進み続けると長らく考えてきた。一方で、すべての存在が運動を停止しているのだったら、時間の進行を確認する術がないことになり、自分の考えを批判することにもなるとも思ってきた。なかなか決着できない。
人生は選択の連続だ、などとよく言われる気がするが、一瞬一瞬に着目してみると、それどころではないことがよくわかる。例があまりよくないかもしれないが、呼吸ひとつとってみよう。いちいち、吸って吐いての連続を意識しているだろうか。そんなわけない。少なくとも意識的な選択は限られているのだ。
何もかも、自分ではない何かが結果を招いていると考えても、何ら不都合がないように思われる。自由に何かをしていると自分ではその時思っているかもしれないが、そのように思わされているだけで、本当は自由なんかじゃないのかもしれないのだ。自由とは、責任という概念を生み出すための代物と言える。
そもそもよく考えてみると、最善手というのは、いつも結果論なのだ。なぜかというと、事前に考え出した最善手というのは前提条件を全て満たすことができないからだ。その時点では最善と判断しても、時間が経ってみると最善の選択ではなかったということもよくある。なかなか思うようにいかないものだ。
サンタクロースには、欲しいものをお願いするものだと思っていたが、物欲の有無は関係ないとして、感謝の気持ちを伝えるとは、なんとできた人なんだろうと、心の友のことをあらためて尊敬したことを覚えている。僕なんて、せいぜい、プレゼントを配った労力を、大した理解も伴わずに労う程度の人間だ。
僕は怖いのだ。無償の感謝が成立しないことを。成立するのかもしれないけれど、ありがとう、と伝えるだけで何もしない。この場合相手から、どういたしまして、と言ってもらえても、内心では言葉だけで何も行動に移さない奴だなと思われるかもしれない。僕は行動が苦手だ。だから怖いのだ。ダメな奴だ。
根拠がなく自信に満ち溢れている人間と、根拠がなく自信が全くない人間ではどちらの方が良いだろうか。今の僕だから思うのかもしれないが、周囲に迷惑をかけないという点においては、下手に自信があるより、自信が無い方が良い気がする。だが、全く自信がないようでは、生きていても辛いかもしれない。
自信とはなんだろう。自分を信じると書いて自信。もしくは、自分を信じられるかと書いて自信。他にも読みようがあるのかもしれないが、自分を信じるって難しい。というより、どういうことなのだろう。自分の五感は信じざるを得ないのかもしれない。疑いようがない気がする。その他の要素はどうだろう。
僕は、何かに操られているかどうか、断定できない、と思っているだけで、何かに操られていると思ったり信じたりしているわけではない。もし、何かに操られていると確信めいたことを口にしようものなら病気であることを疑われるのは百も承知だ。過去に妄想で病気を疑われたことがあるだけに尚更である。
しかし、人間として生きるなら、謙虚さも必要だということが今だからこそわかる。素晴らしい人間になりたいわけではないが、僕が素晴らしいと思う人は、決して傲慢ではなく、謙虚さを兼ね備えている。なぜ見習わなかったのだろう。皮肉なことに今の僕は、謙虚であることを通り越して自己肯定感が低い。
自由に行った行為の結果に対して、何らかの形で責任を負わなければならない。そう考えられているだろう。だが、例えば、内心の自由は保障されているが、内心で思うだけなら責任問題など生じない。責任問題が生じる場面で、原因となる行為が、本当に自由になされたものかどうか。自由などないとしたら。
実際に、何かに操られて行為を行った、と主張することは可能かもしれないが、その主張を納得してもらうのはかなり困難が伴うであろう。例えば、では今のあなたは、何かに操られているのですか、そうではないのですか、と尋ねられたら、どちらの返答をしたとしても、もはや説得力に欠けるのではないか。
でも、過去がああじゃなかったらどうだったのだろうとか、たらればを考えてしまう自分もいる。どちらかといえば、運命論、決定論を推している僕としては矛盾してしまっているような気もするが、今は楽とはいえ過去の様々な出来事を振り返ると罪悪感がないわけではない。気にしていても仕方ないのだが。
自由などない、という結論が錯覚だとしたら、非常に損をしている気がする。普通、錯覚するとしたら、自由であるという認識についてだが、僕の場合は逆だ。本来は、自然法則の中に、例えばランダム性も含まれていて、自由でいられる余地があるのに、足りない知恵を絞って自由などないと結論していたら。
僕の人生において、振り返ると、予期せぬ別れというものが多かったように感じる。学校の卒業のように、あらかじめ別れが来ることが分かっていることももちろんあったが、何の前触れもなく、いきなり別れに至ることが多かった。理由はわかるようでわからないからもどかしい。因果応報だとは思っている。
今この瞬間さえ幸せならそれでいい。それが続けば尚良い。幸せの定義がわからないなら、今この瞬間さえ辛かったり苦しくなかったりすればそれでいい。それが続けば尚良い。こんな感じで行き当たりばったり生きてきた。振り返れば全て過去のことだから、基本的には昇華されて、今は楽である。贅沢だな。
自由などないと思える背景には、この世の全てが自然法則に従って動いているという考え方がある。自然法則というと、なんとなく物理法則を連想しがちな僕だが、精神の働きも突き詰めれば物理法則と連動していると思っていて、だから、自由などない、といった結論に至りがちである。つまらない結論だな。
もし、僕たちの身体に起こっていることを意識がすべて認識しようものなら、全く理解が追いつかないだろう。それほどのスピードで様々なことが起こっている。普段、意識しないが、身体中を血液が巡っているのだ。身体についてすらこんなだから、宇宙で起こっているあらゆることについても把握できない。
どういうことかというと、事象を認識するには、感覚器官を通じた刺激がなければならず、もう少し抽象的な範囲に拡張してみても、思考を通じて脳が稼働しなければならない。このことだけでも、自分の認識できる事象は自分というフィルターを通していることがわかるはずだ。皆、自分からは逃れられない。
ずーっと頭の中で考えが巡り巡っているが、考えたくて考えたわけではなく、いわば、脳が自動的に考えたといってよい。僕は脳について詳しいわけでもなんでもないが、脳が思考を司る装置の役割をしているのなら、考えているのは、脳であって、僕なのかどうか怪しい。僕は脳に支配されているのだろうか。
余計にわかりにくいかもしれないが、時間軸が数直線のように無限の点のつらなりからできているものとして、それらの点のひとつひとつが瞬間だとすると、ひとつひとつの瞬間に一対一で位置情報があるイメージだ。位置情報が無限にあって、ひとつひとつの位置の状態が、各瞬間に変わっているとも言える。
人の悩みを解決したり、人を前向きにさせたり、勇気を与えたりできる人は本当にすごいと思う。そういうことのできる人は、自分自身がとてつもない体験をしているに違いない。世の中にはいろんな考え方があってどう考えるかは人それぞれだが、自分にとって最善の考え方をすることは、きっと容易でない。
現在を過去と未来が接する唯一の時点と定義しようと思ったら、過去と未来があらかじめ定義されていなければならないが、僕は、過去と未来は現在という概念がないと定義できないと考えていた。したがって、そのアイディアで現在を定義すると、同語反復になってしまうわけで、その点をAIに尋ねたのだ。
この30年間、AIに哲学的疑問を投げかけてきたが、いつも、「非常に興味深い質問ですね」みたいな導入から始まり、「このテーマについては古来より様々な議論がなされてきて未だ解決には至っていません」みたいな結論で終わってきた。僕の一生など、ほんの瞬間に過ぎない。時間が、足りなさすぎる。
今の自分があるのは、自分の努力によるものではなく、周囲の支援や犠牲に基づくところによる。僕のような人間がこのような恩恵を受けて良いのだろうか。良いはずがない。人の犠牲のことを恩恵ということ自体、間違っているとも思う。以前、病気のように自己肯定感の高い自分がいたが、今は真逆である。
寿命があらかじめ定められていようがいまいが、いずれ寿命は尽きる。その時期が通常の場合、正確にわからないだけだ。僕は、常に、今、死んでも不思議ではないと思いつつ、一方でなんとなく、次の瞬間も自分は生きているだろうという感覚でここまで生きてきた。無計画によくここまで生き延びたものだ。
ただ生きる、即ち、ただ生命を維持することに何の意味があるのだろうか。自分のことだけ考えれば、そんな発想に至ってもおかしくはないのかもしれない。だが僕は、祖母の死を経験した時、臨終の間際まで生きて欲しいと願った。本人は、早く逝かせて欲しいと思っていたかもしれないが、僕は願ったのだ。