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【読書note】『悟り』をひらくには。
かなり前のことですが、友人となにげない会話をしていたときに、
「なに?悟りでも開こうとしてるの?」と揶揄されたことがあります。
私自身がどんな発言をしたのかは覚えていないのですが、「他人に理想論を語るとバカにされる」と感じたことは記憶に残っています。
若い頃は、ちょっと“悪”の方がかっこいいと思っている人が多いですもんね。「ルールから外れたことをする」が自己表現なんです。
それ以来、人前で「こんな人間で在りたい」というような自分語りはしなくなりました。
しかし、今では思います。
「悟れるもんなら、悟りたいよ」と。
『悟り』を開いた先に、どんな世界があるのか見てみたいものです。
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そこで、今日の【読書note】です。
最近は、僧侶の方が書いた本もたくさん出版されています。
わたしたち一般人も、出家などせずとも『禅』の考えを学ぶことができるのです。
で、この本にはこんなことが書かれていました。
禅とは修行ではなく、「生活そのもの」
荒行や難行が修行なのではなく、日常生活のなかに修行があると、禅宗では説いているのです。
そう、特別なことじゃないんですよね。
「ありがたく食事をいただく」
「身の回りを清潔に保つ」
「靴をそろえる」
そんな日常の行為も、『禅』の一部です。
わたしの発言をからかった友人だって、あたりまえのように行っていることなんです。
自覚しているのか、していないのか。
それだけのことです。
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さらに、『悟り』についてはこんなことが書かれていました。
禅でいう「悟り」とは、「安心を得る」ことだともいわれています。自分の心が安らいでいれば、心に余裕が生まれ、自分に対しても周囲に対しても客観的になることができます。
目指す場所は、
「安心して暮らすこと」
これも、特別なことじゃないんですよね。
誰だって、安心して暮らしたいものです。
でも、それができない人がわんさかいます。
常に不安を抱えていたり、すぐにイライラしたり。
ここで扱う『安心』とは、一生食べていけるだけのお金があるとか、安定した職業についているとか、そういったことではありません。
結局、そういったものに『安心』を求めると、不安からは逃げられないのです。
どうすれば、『安心』を得られるのか?
それは、ひとりひとりの課題なのでしょう。
自分の理想とするもの、仏様を求めるなら、自分がそれになるしかありません。外に求めてもだめなのです。なぜなら、自分がどういう人間になりたいのかは、自分にしかわからないからです。
そう、自分で体現しなければいけないのです。
「わたしはこう在りたい」と。
それが出来たとき、『悟り』が開けるのかもしれません。
ステキな一日を★