児童指導員制度の提案~「学校に行かなくても問題の無い義務教育制度」と教員の「児童の将来に対する責任」の問題を同時解決
要介護・要支援認定を受けるとケアマネが配属される我が国日本だが、同様の制度を子供にも導入したらどうかと考えている。
制度の必要性を感じる発端となった経緯
そう考えるようになった発端は、うちの長男が学校に殆ど出席しない事を、「児童福祉行政指導監査員」が、私の自宅まで来て、「親がまともに子供の面倒を見ていないのではないかと近隣の方から報告があった」という建前で話しに来た時の事だった。
蓋を開けてみれば、どうやら担当の先生が調査を依頼したという事が分かった。私の方からも、担当の先生には子供の事を説明しておく必要があったという自覚はあったので、説明不足からこのような事態になるのは理解ができた。
教育方針含め、私自身に後ろめたい事はなかったので、真摯に対応させて頂くと、「先生には私たちからも報告しますが、できたら直接話しをしてあげてください」と話しを締めていただく事ができた。そうして、児童福祉行政指導監査員には再訪問される事もなかった。
(一応不登校である息子を擁護しておくと、彼は小学4年生の時に「スクラッチ一級」の資格を取った。(当時の最年少は小学3年生) 彼の事は別の機会に話すとして、兎に角、一芸型の児童であり、義務教育の枠組みにはめるのが難しいという事だけ言わせて頂く。)
現行の制度の問題点
私はこの瞬間に、制度上の問題がある事を実感した。
問題の根幹は、「担当の先生」が教育が実施されている事に対しての責任を抱えている事である。
先生とは、教育を実施する立場であり、教育が家庭やその他の場で実施されているかを監査する仕事を兼務するべきではないと感じた。
その理由は簡単で、義務教育を実施するという事と、子供の長期的将来を考えた教育を指導・相談するという事は、まずマネジメント(バードビューを要する)とオペレーション(細部へのケアを要する)とで思考のレイヤーが異なり、性質的にも真逆に近い性質を持った仕事だからだ。
そもそも教育の目的は多様
ここで重要になってくるのは、教育の目的であるので、それについて軽く触れる。
義務教育の目的は、「義務教育のカリキュラム上の脱落者の数を最小化する事」であるが、日本の法律の定義で言えば
Googleに聞くとこんな答えが返ってきます。
また、 Martin Luther King, Jr.は教育の目的という著書でこのように述べてます。
勿論、キング牧師の著書も深読みしていけば人格形成について言及がありますが、定義とする部分においては、人格という言葉が出てこないのが日本の定義とは大きく異なるところです。
無論、後者二つが人格形成を教育の目的に含めていないわけではなく、より具体的な手段を通じて、人格形成も副次的になされるので、定義に含める必要がないという判断になると読むことができます。
教育の目的については、ここで掘り下げると大変な事になってしまうので、このように目的レベルで個人と国で一致しておらず、非常に難解なモノであるという事だけ言及します。
義務教育の教員のようなオペレーションで多忙な人間に首を突っ込ませて良い仕事ではないと私は考えるわけである。
そこで、ちょうどケアマネが福祉の現場において、最終的な監督責任を持つように、児童一人一人に対して、教育の実施についての監督責任を持つ人間を国からアサインしたらどうかという考えだ。
児童指導員制度の目的
さて、この児童指導員の目的としては…
あたりになるのではないだろうか。一定の絶対悪とする指標を設けつつ、教育としての一貫性が存在しているかを問う事になる仕事になると思われる。
「学校に行かなくてはならない脅迫概念」にバイバイしよう
このように義務教育から外れて、バードビューで児童の将来を見ている指導員がいる事で
「何が何でも、小学校・中学校に行かなくてはならない」
という現慣習に対して、制度上の終止符を打つことができる。
この事は、多くの児童や親にとって、大きな安心材料になるのではないだろうか。
不登校は非常に大きな問題であり、この問題に関しては多くのNPO等が関与し、解決を図ろうとしている。が、義務教育の教員が教育の指導員を兼ねている以上は、義務教育に参加しない=不登校 という図式は崩せないのではないかと私は考えている。
専門性の分離と人材登用のメリット
さて、この制度は、人材登用の面からみても有意義である。
まずは人員不足で労働時間がキャパオーバーしている事で有名な義務教育の教員という最悪の仕事を単純化できる事。
逆に、教員のような「教育の実施をする」側の仕事はしたくなくても、「児童の将来を見据えて、長期的に指導する仕事をしたい」という人は一定数存在するだろう。まず、私自身がそうである。
更に言えば、義務教育の教育の実施と長期的な指導の2点には、スキルとしての相関性がほとんどない。同じ人間が兼務する理由がない全く別のスキルを必要とする仕事なのである。
6歳から15歳までを長い目で見る児童指導員
丁度ちらっと言及したが「長期的な指導」も大きな利点である。
義務教育の担任は、1年~2年で強制的に交代になってしまうが、児童指導員は児童からの希望がない限り、何年でも続けてよいと考えられる。
つまり6歳頃から15歳ぐらいまでずっと自分の事を見てくれている教育や相談に対しての専門性のある大人が一人付いてきてくれるという事である。
行政の事なので、うまくいく事例もあれば、うまくいかない事例もあるという感じになるだろうが、現状よりはマシなのではないだろうか。
デメリットについて
さて、教育コストの増大が当然デメリットとして挙げられるわけである。
丁度、今年四月に、教員に対して残業代として渡されている「教職調整額」の上限が基本給の4%から10%に引き上げれた。その背景には、もっと残業をしてほしいという意図と、教員の募集が増えるのを期待しての事であろう。
そのように教育に対しては、国はコストをかける気があるのがうかがえる。仮に「教育参加に対する責任」を教員の肩から降ろす事で残業分の時間がまるっと無くなるとしたら、教員の給与の10分の1で児童指導員を雇えれば良いということになる。
すると、おおよそ、一人の児童指導員が300人の面倒を見ている状況となる。不登校の割合が3.2%(過去最多)との事なので、10人ぐらいの児童が本格的な対象となる。(義務教育に参加できている290人の児童は、学校出張をしてまとめて定期的な確認をするだけで良いと思われる。仮に、年に二回で15分の打ち合わせ(ローテーション間隔を含む)として、580回の打ち合わせ = 145時間+α(移動+報連相)である。
流石に300人の面倒を見るのはやや厳しそうであるが、私のような素人の概算など何の意味もないだろうから、このあたりにしておこう。
言える事は、それらの仕事は現状教員の仕事であるという事であり、本来果たされるべき仕事の総量が増えるわけではないという事である。
本来果たされるべき仕事が実行されれば仕事の総量は増えるだろうが、児童の将来を個別相談し、それを指導する以上に重要な未来投資等あるのだろうか。
我が国の人材育成にとって、国が掲げている民主的な教育目的と完全に合致していない個々の家庭の教育方針に対して、一定の尊重をすることは非定量的な効果を齎す事は明白である。
それを認めた上での制度設計をするべきではないかという段階に私たちは来ているのではないだろうか?