「短歌を始めたのはいつですか」
短歌を始めたのはいつですか、と尋ねられると、「いやあほんの数年かじっているだけで」などと曖昧に答えるのが常だが、正確な答えを、実はわたしは知っている。
二〇一一年七月十日。ETV特集「この世の息~歌人夫婦・四十年の相聞歌」が放映された夜からだ。
その日の日記には、どうにか三十一文字に収まったというような、痛ましいくらいに未熟な短歌がいくつか並び、その後には「歌人の最期は辛すぎる。ずるい」と悲鳴のような字体で書かれている。「ずるい」だなんて、今読み返すとぞっとするほどの幼さである。とはいえ、ある種の挫折から抜け出しきれないまま二十二歳を迎えたわたしの、心底からの声でもあった。
傍若無人で、他人を傷つけることに無頓着で、そのくせ傷つけられることには人一倍敏感だったからこそ、歌人・河野裕子の生き様とその歌は、圧倒的存在感をもって映った。
放送が始まってすぐ、これはただならぬことが起きると予感した。部屋に飛んで帰り、ノートをひっつかんでテレビの前に駆け戻った。ソファに直接ノートを置いて、テレビとノートを交互に見ながらせわしなく感情に揺さぶられていたあの夜を、今も覚えている。
「歌に私は泣くだらう」(永田和宏・著 新潮社二〇一二年)を手にしたのは、番組の放映後すぐだった。永田氏は事実と推測をきちんと分けて記述している。理路整然としたその語り口の端々には、思わず唇を噛むような痛切さがある。
だが、その痛みには確かに意味のあるものだと、氏は確信しているように思う。喪う恐怖に駆られ、何度も病気の彼女の膝に縋って泣いたと回想する。そのとき、読者はタイトルの一首と改めて出会い直す。
歌は遺り歌に私は泣くだらういつかくる日のいつかを怖る
遺される側の哀しみが、水のように押し寄せてくる。歌人として愛する人の喪失と向き合うことがいかに酷で、いかに美しいか。呼吸が浅くなるような気持ちのままページをめくり、遺す目線と、遺される目線とを行き来するうち、ひりひりとした読了感の中で、自分自身の痛みが薄らいでいくようなこころもちになる。
白木槿あなただけには言ひ残す私は妻だつたのよ触れられもせず
あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
「詩なんてサムい」「綺麗事」とばかり考えていた二十二歳の若者に、河野裕子の歌はショッキングだった。はじめて椎名林檎を聴いたときと同じ衝撃だったように思う。
そりゃあたしは綺麗とか美人なタイプではないけれどこっち向いて/「ここでキスして」椎名林檎(1999年・東芝EMI)
一瞬、面食らう。
詩である以上、読み手は美しいものであるべきだという思い込みを、これらの歌は簡単に飛び越える。重いパンチでもって、ではなく、あくまでも普通の顔で、喉の奥や心臓の裏、食道の奥に隠した(あるいはこびりついた)感情を歌う。
あ、言っちゃっていいんだ。そうか。すとんと腑に落ちた気持ちで向かい合うと、歌の輝きはいや増す。
河野氏が痛みに耐えてでも詠み続けたいと思うエネルギーと、その結果生み出された歌。永田氏の、それを支える決断の重さ。ほとばしるような激情の果てで、あんなにしなやかな短歌が生まれることにわたしは驚き、それに触れてみたいと心から思った。それが、短歌を始めたきっかけである。
先日、市川市短歌大会で特選を頂戴し、永田淳氏にお目にかかった。飾らない笑顔と穏やかな佇まいが印象的で、ひとことひとことがストンと手元に落ちてくるような素敵な評を聞くことができた。その歌が祖父との別れを歌ったものだったことも、わたしに静かな感動を与えてくれた。あの夜、傷まみれだったわたしも、喜んでくれているように思う。
鯖寿司の背中の光を割り箸で優しくなぞる雨の斎場/高橋彩(二〇一八年市川市短歌大会 特選、NHK千葉放送局長賞)