ぶぶぶ。(織田作之助「六白金星」)
出会いは「ミーハー」「野次馬根性」といったところだ。浅学を承知で言えば、川上弘美氏の書評内でその名を見るまで、代表作さえ知らなかった。「川上さんが面白いって言うんだから面白いだろう」という、平々凡々、小市民きわまる理由で読み始めて、止まらなくなった。なんだって電車の中で読み始めたのかと自分を呪いながら読んだ。途中で下車駅がきたが、ひとりをいいことに先まで乗りつづけ、読み続けた。渋谷を過ぎ、電車はどんどん都心に向かっていく。
電車に揺られながら読み終わったせいか、読了後しばらくゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら目的地にUターンしているあいだ、やけに携帯電話をのぞいてしまう。なにかが「ぶぶぶ」と揺れているのだ。この揺れの原因を探ってみるとどうやら体の中のどこかで「ぶぶぶ」「ぶぶぶ」と鳴っているらしい。マナーモードの携帯電話のような、ささやかな、しかし気にかかる「ぶぶぶ」である。
「ぶぶぶ」をきりひらいてみると、「ソハソハ」が入っている。楢雄が家出を決意したのち、ばったり兄の修一と出会って電車に飛び乗ったときの「ソハソハ」。
さらにべつの「ぶぶぶ」のなかには、「しみじみ」もあった。家出の後、ビアホールで教員と鉢合わせてしまう楢雄が、校長や教員から絞られるときのものだ。激昂したかと思えば泣き出した教員を、「しみじみ」情けなく見る楢雄。
「しよんぼり」。仕送りするのしないので揉めた挙げ句、逃げ回るようにすみかを変える楢雄を、梅田の改札口で「しよんぼり」待ちぶせする母の寿枝の姿。
「六白金星」は、市井のひとびとの話だ。楢雄のことばも、修一の考え方も、もちろんある種のドラマ性を持ちつつも、それは日常生活のレールの上から決して外れはしない。彼ら自身もそれを望まず、厭わず、ごく当たり前に暮らす。その彼らの生き様をあらわすのにあたり、ことばのもっている元来のエネルギーを、筆者は過大に信頼しない。かといって雑にも扱わない。「そわそわ」「しみじみ」「しょんぼり」は、誰が読んでもおよそ似通ったイメージ図をつくることばだろう。その力だけに頼らず、しかしその力でもって、楢雄や修一の生きる世界が書かれているのが、わたしの「ぶぶぶ」という微細バイブレーションにつながったのだ、おそらくは。
その日はいちにちバイブレーションがやまず、ようやっとたどり着いた出先の喫茶店で吸い寄せられるように「夫婦良哉」「アド・バルーン」を読み、からだ全体をぶるぶるさせながらあきらめて家に帰り、布団の中で存分にぶるぶるしながら「世相」を読んだ。