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75年前、祖母は北朝鮮から帰ってきた。
昭和10年、祖母は現在の韓国にある、蔚山(ウルサン)というところで生まれた。
当時朝鮮半島は日本の領土だった。
これは、亡くなった祖母から聞いた祖母の幼少期を書き留めておくだけの記事である。
祖母の父は朝鮮半島にあった鉄道の駅長だった。
一家は父と母、祖母を含めた6人姉弟。
祖母はこの姉弟の四番目に生まれた。
一家は駅長だった父の都合で、朝鮮半島内で何度か引越しをした。
きちんと記録していなかったことが悔やまれるが、
いくつか覚えている地名に「カンコウ」「ジュンセン」などがある。
こうして朝鮮半島で暮らしているうちに、戦争が終わる。
一家は現在の北朝鮮にあたる地域で終戦を迎えた。
当時祖母は10歳だった。
戦争が終わると、すぐに駅長だった父が朝鮮人に連行されていった。
祖母いわく、父は駅長という立場から戦争中は朝鮮人に対して高圧的な態度を取っていたが、
戦争が終わり、痺れを切らした朝鮮人たちが父のような日本人たちを引っ張っていって暴行を加えたり、物を奪ったりしたということだ。
父は10日ほど帰ってこなかった。
母は父が帰らぬ間に、引き揚げの準備をするため徹夜をしながら布でリュックを作っていた。
そして姉弟の中で祖母だけが、夜中に目を覚ましては、父を心配し、帰りはまだかと母に尋ねたという。
いよいよ父が帰って来ると、日本へ引き揚げるために家族で家を出た。
まずは鉄道に乗るため駅へ向かった。
父が駅長だったため、家族は優先的に鉄道に乗れるはずだった。
しかし、終戦の混乱でなかなか鉄道が来ない。
優先的に乗れる家族のために用意されていた部屋も、そんなのは関係なく引き揚げ者でごった返していたという。
仕方なくその日は一旦家へ引き返した。
しかし、家へ戻ると中は朝鮮人に荒らされていて、残っていた物を奪われたりしていた。
次の日か、何日か経ってからから、家族はようやく鉄道に乗ることができ、現在の北朝鮮にある平壌に到着する。
その後も戦後の混乱でなかなか身動きが取れず、一家は平壌で1年ほど暮らした。
周りには同じような日本人が多く暮らしていたそうだが、既に朝鮮半島は日本ではなくなっていたため、現地では学校にも通うことができなかった。
このため祖母は日本に帰ってきた後、1年多く小学校に通っている。
この他に平壌でのエピソードとして、近所に住んでいた日本人のお姉さんが、近くにあったロシア人(当時ソ連)の家にお手伝いに行っていたそうだ。
そのお姉さんはロシア人の家へ行くときにいつも祖母を誘い、連れて行ってくれたそうだ。
そのロシア人の家でボルシチを食べた、、、という話を聞いたことがあるが、どこまでが本当のなのかは定かではない。
こうして平壌で1年間暮らした後、一家はようやく日本へ向けて再出発する。
日本へは最終的に船で海を渡る。
船は現在の韓国・釜山から出ていた。
平壌から釜山を目指し、途中までは鉄道を乗り継いで南へ向かったが、途中からは徒歩で森の中を歩いた。
それも昼間ではなく、夜に歩くのだ。
昼間に歩くと朝鮮人に見つかり、暴行を受けたり、物を奪われたりするからだ。
一家は歩く途中荷物を軽くするため、米などの必要最低限の物だけを残し、持ち物を捨てた。
そして何日も何日も森の中を歩き、一家はついに釜山に到着する。
釜山からは「リバティ」という大きな貨物船に乗った。
大人たちは疲弊して船底で座り込んでいたそうだが、祖母たち子供は元気で、甲板に上がって遊んだという。
そして船は、福岡へ到着する。
祖母はこの時、生まれて初めて祖国日本の地を踏んだ。
75年前のことだった。
これが、私が祖母から聞いた引き揚げの記憶である。
祖母は亡くなる5年ほど前から認知症になった。
認知症になってから、祖母はこの引き揚げの話を繰り返し話した。
いつも「おばあちゃんはね、北朝鮮から帰ってきたんよ」と言って話し始めた。
当時は、認知症になると最近のことが覚えられず、記憶にある昔の話をよくするようになる、、、という症状ということしか考えになかったが、
祖母はこの引き揚げの話ばかり話した。
悲しんだり、つらそうに話すのではなく、
本当に昔話のように穏やかに話すのだ。
しかし今思えば、相当強烈に残った過酷な記憶だったのではないだろうかと思う。
そして、単純に昔話として話していたのではなく、
私たち後世に伝えておきたい記憶だったから話していたのではないかとも思う。
祖母はもうこの世にはいない。
もっとちゃんとメモを取り、記録に残しながら話を聞いておけばよかったと後悔している。
その時の気持ちなどを掘り下げて聞いてみればよかったとも思う。
しかし、ここまでの内容をここに書き残せただけでもよかったと思う。
祖母の貴重な体験を、孫として聞けてよかったと思う。