『自己』肯定感なのに
昨年、とある企業から面談に呼んでいただいた。
いわゆる「面接」のように、決まった質問を淡々とこなす、というものではなかった。
その企業が用意した面談とは
就活生の本音を引き出そうとフラットな質問を繰り返し、親身に丁寧に話を聞く、そんな素ぶりをしながら
目の前の人の発言を、自分が理解できる範囲で切り取りラベリングして、俯瞰したような物言いで優越感に浸る
そんな大人と話す場所であった。
(あくまで穿った物の見方しかできないわたしの所感であり、当人にはそんなつもりがなかったのかもしれないけれど)
その大人との会話で、ずっと覚えているものがある。
「他人ばかりが、羨ましいんです。」
と言う私に、大人は
「じゃあ、そう思わないように自分の価値を向上させるための努力はしたの?」
との言葉を投げた。
彼の言うことは、きっと正しい。人は、理想の自分を求めて努力し、達成した自分を認めることができるのだろう。
けれどわたしは、これに違和感を覚えた。
違和感の正体は、わたしの自己肯定の方法だった。
わたしは、他者からの評価でしか自分の価値を見出せない。
しかもここでの評価とは、「愛」という不確定なものに完全に依存している。
けれども、他者から愛されるための方法を、わたしは知らない。
どのように努力するべきか、わからない。
他人の感情という、自分の力で変えられないものを、必死に集めて頼って、縋りつこうとしている。
『自己』肯定感なのに、自分じゃない『他者』との在り方に、どうしてこんなに依存してしまうのだろう。
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