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感情の記録

愛してやまない柚木麻子さんの
ツイッターが、またしても終了した。

好きな作家さんは数多くいるものの、
ツイッタラーとして尊敬している
数少ない大人の一人である。

そうして悲しみに打ちひしがれている
わたしを見兼ねた友人が
「柚木麻子さん、この間
アシタノカレッジで武田砂鉄さんと
対談をしていておもしろかったよ」
という情報を寄せてくれた。

TBSラジオリスナーとして
名前はよく耳にするアシタノカレッジ。
彼に進められて聞いた
柚木麻子さんのゲスト回は
たしかにめちゃくちゃおもしろかった。

わたしが一読書家として知りうる限り
彼女ほど楽天的で根明な作家は
たぶんちょっと他に見たことがない。


終盤になって次週の予告で
来週のアシタノカレッジ金曜日の
ゲストはふかわりょうさんだと言っていた。

その時点で、すでに次週である
ふかわりょうさん回の日にちも
過ぎていたので、
後日わたしはそちらも聞いてみた。

聞いてびっくり。
ふかわりょうさんって
こんなにおもしろい人だったのか。

考え方というか、性格というか
スタンスというか、思想?
“こう思うことにしている”的なの
一番しっくりくる言葉が
個人的には、思想。
思想がおもしろい。
ちなみに、わたしは
歯を磨くときは移動する派。

恐縮ながら、知らなかったけれど
エッセイも何冊か出されているそうで、
わたしが知らなかっただけで
有名なおもしろい人なのだろう。

そんな遅ればせながら
ふかわりょうさんのおもしろさと
魅力を知ったわたしでも、
「ふかわりょう」と聞くと
必ず思い出す人が、ひとりいる。

それは中3のときの担任の先生。

1年のときから3年間
わたしたちの学年を担当していて、
担任になったのは3年生の
1年間だけだけれど、
3年間数学の授業や学年集会では
お世話になっていた気がする。

彼は、ふかわりょうさんが好きだった。

中3から12年が経つ今まで、
ふかわりょう好きを公言する人に
わたしは出くわさなかったので
12年経った今でも、覚えている。

わたしが中学生だったときの
わたしの出身校は
地元では「あぁ…」と察されるほど
治安がよろしくなかった。

常にどこかしらのクラスは
窓ガラスが割れていたし、
生徒指導の先生は出ずっぱりで
歴史の授業がまったく進まないので
代わりの先生が追加で採用された。
部室がタバコ臭いのは日常だし、
なぜか廊下に学区内のファミレスの
店長の写真が飾ってあった。

今考えてみれば…
と言いたいところだけど、
12年の時を経る間でもなく
中学校にいる最中から
馬鹿みたい、以上でも以下でもない
タイプの治安の悪さだった。

わたしは陰キャだったので
率先して悪事を働くことこそないが、
そういう人たちが幅を利かせるのを
遠巻きに眺めていた。

そういう中学校の、
そういう世代だったのだ。

そういう学年のわたしたちに、
彼はふかわりょうが好きだと言った。

正直、その話を聞いている
当時のわたしたちの中に
ふかわりょうが好きな人は
たぶんいなかったと思う。

それでも、彼はよく話していた。

そのおかげか、今でも
覚えているエピソードがある。

彼はある日、言った。
「先生の好きなふかわりょうが
言っていたのだけど、
人が怒ったときに物を投げるのは
本当は
自分が飛びたいと思っているから。
だから、腹が立って
何かを投げたくなったら
一度ジャンプするといい。」

今思えば、たぶん根拠はなくて
ふかわりょうさんの「思想」なのだろう。

けれど、わたしは
その話を聞いてから12年間、
事あるごとにこの話を思い出してきた。

そもそも怒って物を投げた経験は
片手で数えられるほどしかないけれど、
物を投げなくなるかはさておき
感情がフッと収まるこの思想に
思春期のわたしも
娘が幼かったときのわたしも、救われた。

小学校から大学までの学生時代を
思い返しても、
先生が言ったちょっといい駄話
みたいなものの中で
実は一番覚えているし
影響力があったのではないかと思う。


イキることしか脳がなかった
中学生のわたしたちに、
ふかわりょうが好きだと常々語り
求められてもいないし
半数は聞いてもいなかったであろう
ふかわりょう語りをしたあの先生は、
きっと、いい大人だったのだろう。

大人になってから会いたいと思う、
当時の懐かし話ではなく
人と人として大人になった今
話がしたいと思う先生こそ
きっと、いい先生なのだろう。

ふかわりょうさんの話を聞いていたら
先生に会いたくなった。
会えたらいいのに、と思った。
会って、ふかわりょうさん回の
アシタノカレッジの
話ができたらいいのにと思った。

けれど、先生は
この放送を聞いていないのだ。
昨年のふかわりょうさん回も、
一昨年の回も、聞いていないのだ。

陰キャだったわたしも
かろうじて所属していた中3のクラスLINEに
先生の訃報が届いたのは2016年の春だった。

あんなにふかわりょうさんが好きだったのに
先生は今のふかわりょうさんの思想を
もう知ることができないのだ。
彼の喋りにもう笑っていないのだ。
悲しかった。
わたしなんかよりも
先生がこの放送を聞くべきだと思った。
先生が今のふかわりょうさんを知れないなら
ふかわりょうさんに先生のことを
知ってほしいと思った。
伝えたいと思った。
12年前の先生のことを。

思えば、中学生のわたしは未熟で、
第一志望しかなかったほどに
第一志望していた高校に推薦で落ちたら
A判定しか取ったことがないのに
急に一般を受けるのが怖くなったこと、
それでも受けたのは先生の
「やめたら推薦した意味がないだろ」
という言葉があったからだったこと。
ちゃんとお礼を言っただろうか。
受けてみたらやっぱり受かって
受けてよかったと思ったこと、
あの高校に行ってよかったと
今でも思っていること、感謝していること。

卒業式の練習で体育館にいたときの震災。
指揮台に立っていて
気付くのが遅かったわたしのところに
飛んできて覆い被さって窓から守ってくれたこと、
先生が重くて揺れがあまりわからなかったこと、
たくさんの言えなかった感謝が蘇ってきた。

一人で行って目立ってた子たちに
会うのも気まずいなあと
喪服持ってないしと言い訳をして
お別れをしに行かなかったこと。
誰も覚えてないだろうし
先生もきっと気にしないだろう。
けれど、自分はいつまでも
覚えているものなんだなあ

わたしたちの学年にいる3年の間に
ご結婚されて娘さんが産まれた先生。
なぜか奥さまの名前を今でも覚えてるし
娘さんはそろそろ中学生かななんて思う。


先生のことを思い出したからと言って、
言えなかった感謝を悔いたからと言って、
何をするわけでもないし
何が変わるわけでもない。

けれど、ふと耳にしたラジオから
思い出した記憶や感情を
忘れたくない、と思ったので、記録。

先生とふかわりょうさんの話ができないなら
ふかわりょうさんと先生の話がしたい。

人生の目標がひとつできたな

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