共に戦う戦士


(続)世界



ー 私のヒーロー



年が明けて1月。
手術前のドキドキと、この足から解放されるんだ、っていうワクワクと、4月から
の看護の勉強へのやる気と。メンタルの調子もだいぶ良かった。


2月中旬、ちょうどバレンタインの頃。
手術前日。雪が降ってた。

6年ぶりの入院。特に不安もなくゆっくり過ごした。

当日、朝一でオペ室へ。
私の好きな音楽流してくれて、麻酔が入ってそのまま眠りについた。

目が覚めて猛烈な寒気と吐き気に襲われた。全身麻酔ってしんどいね。
点滴とか酸素マスクは経験あるけどバルーンカテーテルは初めて。
でも看護師になる前に経験できて良かったなあ、なんて事を思いながらほとんど眠れないまま次の日を迎えた。

1週間くらい特に何事もなく経過は順調。
リハビリも始まって退院に向けて動いてた。

ある日、手術した側の足全体に痺れと痛みを感じるようになる。
触られている感覚もほとんど無くて、熱い冷たいも感じない。
動かそうにも自分の意思で動かせない。

私はほぼ寝たきりになった。


ベッドから出るのはトイレとシャワーと検査。
車椅子に乗せてもらって全部手伝ってもらわないと何も出来なくて、着替えすらひとりで出来ない。
リハビリも基本リハビリ室に行ってベッドの上で出来る事やるんだけど、調子悪い日は先生に病室に来てもらう事もあった。
ご飯を食べるために起き上がって、15〜20分座ってるのもしんどい。ちゃんと座れるのは5分が限界だった。

3月頭、高校の卒業式。私入院中。
行く気にもなれない。
主治医から「せっかくだから行っておいで。」と言われてとりあえず出席。
結局体調悪くなるし、帰る先は病院だし。帰ったら1日4回の点滴始まるし。朝昼夕眠前、一日合わせて15錠くらいの薬を飲んだ。硬膜外ブロック注射とか、色んな事をやった。

一向におさまらない痛みと痺れ。骨の痛みでも筋肉の痛みでも無い、あの神経特有の気持ち悪い痛み。


私の束の間の夏休みは呆気なく終わった。


症状のせいで日中は布団の中で動けず泣いてたし、夜は眠れなくて泣き叫んで収拾つかなくなって鎮静剤打たれたことも何度かある。よくテーブルの上にあったもん全部ひっくり返して投げて床に散乱させてた。
主治医からカウンセラーの先生と話す事も勧められたけど、高校の時の一件があったから断固拒否する私。
いくら検査しても原因不明で、症状の出る場所が手術した場所からの影響を本来なら受けない場所のようで。
症例が無いらしく、たくさんの先生の頭を抱えさせてしまった。
有効な治療法もわからず、回復の見通しも立たない。

4月から学校通えるの?
私、看護師になるのに。


ずっと考えてた。提案された薬、リハビリ、全部試した。

そんな中、母親に言われる言葉は

「まだ歩けないの?歩く気無いんでしょ?もっと本気でやりなさいよ。」

もはや、退院したくない。家になんて帰りたくない。悔しい。なんで私の足、動かないの?感覚無いの?

なんにも変わらないまま1ヶ月弱。
動かないのは神経が癒着しているからかもしれない。
でも画像じゃ神経の様子は写らないからわからない。なにか出来るとすれば切って開けてみる事。
そう言われてすぐに再手術を決断した。

これで何か変わるのなら、手術だってなんだってやってやる。


3月下旬、再手術。
怖いもんなんて無かった。

足を開けた結果、神経が周りの組織にべったり癒着してた。それを剥がす手術をした。

目が覚めてびっくり!足が自分の意思で動くようになった。
自由自在には動かなかったし、痛み痺れは相変わらずで触られた感覚こそ無いけど、私にとっては第一歩。めちゃくちゃ大きな一歩。
痛みを少しでも軽減させて足を動かす感覚を取り戻すために、背中にカテーテルは入れっぱなしで24時間軽い麻酔をした状態を1週間くらい続けた。絶対に歩いてやるんだ。


2回目の手術から数日後、看護師さんから同じ病棟に入院中の患者さんを紹介された。

ちょっと年上の女の子2人とひと回りちょい上のお姉さん。
みんな悪いとこ違うけど、「私ここやったんだよね〜」ってすぐに打ち解けた。

4人合わせて “共に戦う戦士”

今まで病室でご飯食べてたけど、みんなでデイルームで一緒に食べたり。肩やって腕あげられない人の髪を上半身健康な人が結んだり。歩ける人に車椅子押してもらったり。中庭に散歩しに行ったり。院内コンサートに行ったり。病棟の廊下で歩行練習するようになった私を見守ってくれたり。個室の子の部屋に行って一緒にDVDを見たり。

ずっと布団にくるまって全く笑わなかった私が布団から出てたくさん笑うようになった。

リハビリも1日2回に増えた。
筋力測定ってのがあって、悪い方の足はいつも90歳以上って出るんだけど、それをネタにして笑えるくらいにもなった。

しんどい事しか見えてなくて家族からは責められてひとりで塞ぎ込んでいたけど、私はひとりなんかじゃなかった。

一緒に頑張る友達ができた。
自分の事のように心配してくれる看護師さん。
自主リハやりたいって言ったら時間作ってくれる看護師さん。
いっつも笑顔で「おはよー!」って声掛けてくれる看護師さん。
看護の事教えてくれる看護師さん。
「大丈夫大丈夫!病は気から!元気出してこ!」ってパワーをくれる看護師さん。
病棟来たら顔出してくれる各科の先生たち。
たくさん模索してくれる理学療法士の先生たち。
いつも車椅子押してくれる看護助手のおばちゃん。

たっくさんの人たちのおかげで私は、現実と向き合えるようになった。


「大丈夫!元気元気ー!」って嘘ついて笑い返していた私が、

「『大丈夫?』って聞かれたら『大丈夫』って答えちゃうし涙が出てきちゃうから聞かないで欲しい。」

ってこの病院の看護師さんに初めて言えた。

看護師さんはいつだって、私のヒーローだ。


きっかけは忘れちゃったんだけど、いつからか私の部屋で絵しりとりが始まって、最初は共に戦う戦士で始めたんだけど、だんだん色んな人が参加するようになって。
看護師さん、先生、理学療法士さん、お見舞いに来てくれた友達、私の部屋に来た人が1個ずつ描いて繋げていくシステムになっていた。

外に出たすぎて友達と脱走しようとしたこともあった。まあ動くスピードが遅すぎて出来ないんだけど。


4月頭くらいだったかな、友達の1人が退院した。
またすぐ遊び来るわ〜ってたまに病棟に顔出しに来てくれたんだけど、ある日、個室の子から「部屋に来て!」って呼び出された。慣れた手つきで車椅子を運転して部屋に入ったら「入学おめでとう〜!」ってサプライズで入学式をやってくれたの。退院した子がケーキ買って来てくれてて。もちろん大学の入学式は行けなかったから、沈んでる私を見て計画してくれたらしい。へこんでたのがアホらしいや。


入院から2ヶ月ちょい経ってようやく退院が決まった。
みんなにそれを報告してから数日後、私が部屋に戻ったら退院したお姉さんが私の部屋でくつろいでた。
「え?なんでいるの?」って思ってたら個室の子も来て、「ねえ、部屋戻ったら◯◯さんいたー!ウケるー!」とか言ったんだけど、なんとこっそりアルバムを作ってくれてて、そのメッセージを書きに来てくれてたらしい。出会ってからたくさん写真撮ってたからその写真がてんこ盛りで。
みんな顔だけ見りゃ、どこにでもいる元気な女の子たちなのに、全身写した途端に病人すぎてそれがまたシュール。
車椅子に歩行器にギプスにコルセット。フルコースやんけ。
入院患者さんたち、看護師さんたち、たくさんの人がメッセージも書いてくれてて。今でも大事に取ってある。宝物。

結局退院したのは4月末。
病院を出る時、友達、看護師さん、助手さん、色んな人が見送りに来てくれた。目真っ赤にして送り出してくれた看護師さんもいて私が泣きそうだった。




ー 現実


バレンタインの時期に入院してゴールデンウィークの時期に退院。
夢見た外界の桜は散っていた。

回復の見通しは立たない。歩けるようになるかもしれないし一生このままかもしれない。

でも主治医の先生がいつも

「きっとよくなる。一緒に頑張ろう。」

って言ってくれてた。

もちろん学校には通えない。とりあえず1年間の休学。
診断名は、坐骨神経障害
手術前に通っていた近所の総合病院で通院しながらのリハビリ生活と、新しい障害との生活が始まった。


私はこの障害を受け入れる事ができるのだろうか。
私はこの障害と共に生きる事が出来るのだろうか。


頑張ろうって意気込んで退院したけど、車椅子で社会に放り出された私の居場所は無かった。

家は4階。エレベーターは無い。1時間近くかけて登り切った先の家こそ地獄だった。
まだまだ座っているのも厳しい体。横になっていると

「怠けんな、歩く気ないの?」

「やる気ないなら飯やらねえよ」

私、好きでこうなったんじゃないんだけどなあ。

近所のスーパーに買い物行く母親に便乗した。

知らん人からすれ違いざま、

「あー邪魔。」

って言われた。そうだよね、車椅子って思ったより幅取るし。サッと避けられないし。ごめんなさいね。

病院にしか居場所は無かった。
家族はその病院の事も悪く言うから悔しくて堪らなかった。

落ち着いていたはずの自傷の衝動に拍車がかかる。

退院してからのリハビリはメニューも増えた。時間も増えた。
保険の関係で病院でのリハビリも期限がある。
それまでに杖に移行するって目標立てて、とにかく頑張った。
キツくて堪らないリハビリ。私があまりにもしんどそうな時は先生に今日はここまでにしとこうか、って言われてもまだやるって変な意地張ったりして。

だって悔しかったから。

左足で出来る事が右足じゃ何もうまく出来ない。
冷水と温水、交互に足を入れる交互浴もなんとなく冷たいかな、あったかいかなって感じる程度で、左足入れたら冷たすぎて痛いし熱すぎて入っていられないしで、は?って思った。

身体的にも精神的にもしんどい日は、我慢してても涙が溢れて止まらなくなるし。
リハ室で何度泣いたかわからない。
先生は、そういう日は無理しない事。って休みながらやらせてくれたけど、それを知った母親はやっぱり怒る。帰りの車内は地獄。

杖を使った歩行練習、ほんの5メートルくらいの距離を何十分もかけて歩く。
私からしたらマジで万里の長城。

「すごい!歩き切った!」
「やったね!この前より10秒早くなった!」

っていつも褒めてくれる先生。

「それで歩いてるって言えんの?」

って言う母親。

少しの成長も素直に喜べない私。



ー 強行突破



悔しさのあまりある行動に出る。

7月、

《自分の足で近所のコンビニまで行って帰ってくる。》

普通に歩けば5分かからない距離。難関は横断歩道。幸い信号の無い横断歩道だからタイムリミットは無い。

行ったろ。

誰の手も借りずに自分の足と杖で。

何時間かかったか覚えてないけどちゃんと行って帰ってきた。

これで調子に乗った私、次の計画を立てる。

8月、

《ひとりで岩手に行って帰ってくる。》

好きなアーティストのライブが岩手であって、友達がチケット取れたから一緒に行かない?って誘ってくれて。体の心配より行きたいが勝ったから即決で行く選択をした。現地まで行っちゃえば友達がいるしなんとかなる。
先生に行くって行ったらめちゃくちゃ心配してくれたけど、熱意伝えたら

「気を付けて行ってきてね!帰ってきたらライブの感想聞かせてね!」

って背中押してくれた。

親には前日まで「本当に行くの?やめとけば?」って言われ続けたけど、

「行かずに後悔するより行って後悔したい。行けば後悔なんてしない。」

って強行突破した。
新幹線で行って、ライブ観て、ホテルで一泊して、翌朝新幹線で帰ってきた。
律儀にお土産なんて買っちゃって。

行けた。私、行けた。

帰ってきてからの体調は絶不調だったけど、宣言通り後悔なんて全くない。
先生にちゃんと帰ってきたって報告したら褒めてくれた。

大丈夫、私は強い。

この時は車椅子2割、杖8割くらいの生活をしていたけど、9月に車椅子を手放す決断をした。
これからはロフストと二本足で歩く。気合だ。

病院にも電車とバスで通った。
どうしても通らないといけない階段があって、通る人たちにガン見された。私は動物園の動物か。
ティッシュ配りのお兄さんだけが
「大丈夫ですか?なんか手伝います?あ、俺ティッシュ配ってる人なんすけど。」
って声掛けてくれた。優しい人もいるもんだな。

そうこうしているうちにリハビリの期限が終わった。

完全に自分の力だけで頑張らないといけない。
怖くて堪らなかった。

リハビリの先生が

「今日までよく頑張った!!!!そのガッツで二足歩行目指して無理せず頑張ろうね!ひとりじゃないよ!!!辛くなったらいつでも顔出しにおいで、ここで待ってるから!!」

って送り出してくれた。リハビリノートは今でもたまに見返して元気貰ってる。

大丈夫、私には病院に居場所がある。辛くなったら逃げ込める場所がある。
私の次なる目標はロフストを卒業してT字杖で歩く事。

12月あたりからライブもちょこちょこ行くようになった。
椅子のないライブハウスに行く時は、スタッフさんにお願いして椅子用意してもらって。
ライブは歩くためのモチベーション。

年明け、T字杖を買った。
今日から私の相棒、よろしくな。

友達とも会うようになって、少しずつ行動範囲を広げていった。
4月から復学するために。

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