#2 人間変容の必要条件・偶発的衝突の可能性を高める方法 ―人間変容のメカニズム②―
前回は、人が変わるためには決意が必要であり、その決意のためには偶発的衝突が必要であることについて確認した。そして、偶発的衝突は、それ自体を引き起こすことができないが、「偶発的衝突が起こりそうなところに行く」こと、「偶発的衝突の萌芽を掴む」ことはできるとした。今回は、この2つの方法について、どのようなことかをみていきたい。
まず、「偶発的衝突が起こりそうなところに行く」ということについて確認したい。そもそも、偶発的衝突とは、過去の自身を未来に外挿した時に起こりえない出来事である。それが起こる場所は、端的にいえば、これまで自分が足を運んでいなかった土地であり、あっていなかったような人であり、読んで来なかったような本である。つまり、そのような場所に行くこと、自らの過去の連続ではない場所に行くことは、偶発的衝突が起こる可能性を高める。
また、見慣れた場所であっても、自身のとらえ方次第で偶発的衝突が起きる可能性がある場所に変えることもできる。例えば、過去に読んだ本を時間が経って再読すると、前回とは違った印象を受けることがある。当然、本自体は変わっていないため、自分のとらえ方が変わった故に印象が変わる。これと同じことを、意図的に行うことで、偶発的衝突が起きる可能性を高めることができる。例えば、テレビでアイドルのドキュメンタリーをみる時に、純粋なエンターテイメントとして温室からみるのではなく、競争社会でトップを目指している人間のドキュメンタリーとして、学ぶべき対象としてみてみる。観客の立場からではなく、演者の立場からみてみる。そうすると、場所自体は変わっていないにも関わらず、偶発的衝突が起こる可能性が高まる。
注意しなければいけないのは、ただ新しいことをするだけでは、殆どの場合は「偶発的衝突」にはならないということだ。例えば、新しい人に会うのも、自分と似通った人間に会っていては、ただ過去の自分を未来に外挿しただけである。必要なのは、自身の人生にとって非連続的な場所に行くことであり、見慣れた場所で非連続的な見方をすることである。
偶発的衝突が起こりやすい場所にいった次に必要なのは、偶発的衝突の萌芽をとらえることであるが、これは、きわめて難しい。主体にとって、偶発的衝突の萌芽は不快感を伴うものであり、自らその不快を感じとる必要があるからだ。偶発的衝突は非日常的なものである以上、現時点の自分にとっては何らかの不快さがある。その不快さに相対したとき、拒絶するか、受け入れるかの選択肢が現れる。ここで不快さを受け入れることができるかが、偶発的衝突の萌芽を掴むことができるかの分水嶺である。
この例について、文脈はやや異なるが、評論家の高田明典が、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズを引きながら以下のように書いている。
たとえば、「私」が「定職に就け」と言う親と対立しているとします(これは、まだ若かったころの私自身の例です)。その場合には、まず「それを強制する人間」(親)と「私」との闘いがあります。その闘いが、口喧嘩や険悪な雰囲気という形式をとる場合、それは「外部に存在する他者に対抗する闘い」という様相をもっています。
この「対抗する―闘い」には、親や指導者、教育者などの、権力や強制力を背景にして、何らかの価値観を押し付ける側の存在があります。それに対抗して、相手の力を破壊したり押し返したりするための闘いが「対抗する―闘い」です。
しかしドゥルーズは、それは同時に、「われと、わが当事者の『あいだにおける―闘い』」であるのだといいます。この「あいだにおける―闘い」とは、前記の例でいえば、「親」と「私」との「あいだ」(中間)に存在する何らかの状態に(妥協ではなく)至ることを指しています。それは「対抗する―闘い」という様相ももっていますが、それが「意味をもつ」のは、それと同時に「私」(=闘争者)の内部での「あいだにおける―闘い」という要素が発生しているときであるというわけです。
そして、それが〈私〉の内部にある「Aという価値観とBという価値観との間の闘い」として認識されたとき、「〈自己〉の内部における闘い」となります。
「偶発的衝突の萌芽を掴む」ために必要なのは、不快の受容、つまり、ここでいう「あいだにおける―闘い」である。もちろん、不快の拒絶、つまり「対抗する―闘い」という闘い方にも意義がある。しかし、変わりたいと願う人間に必要なものは、自分の現状にバリアを張ることによる「対抗する―闘い」ではなく、「あいだにおける―闘い」であろう。
「偶発的衝突が起こりそうなところに行く」こと、「偶発的衝突の萌芽を掴む」ことについて、理論上は上の通りであるが、次回はこれらの理論が現象としてあらわれた、具体的なエピソードをみてみたい。
(つづく)