読書感想:J・G・バラード『結晶世界』
はじめに
J・G・バラード『結晶世界』は1966年に出版されたSF小説です。僕は1969年に出版された創元SF文庫の中村保男さんの日本語訳で読みました。この作品は1970年度の星雲賞海外長編賞を受賞したそうです。ニューウェーブ運動に属する作品であり、SFではありますが純文学寄りの内容です。
この本の表紙はずっと眺めていたくなるぐらい綺麗です。少し暗さを感じさせるような美しさがあります。この作品の内容を上手く表わしていると思います。
あらすじ
医師サンダーズはアフリカのマタール港を訪れました。モント・ロイアルにいる忘れられぬ人妻・スザンヌを追ってきたのです。しかしマタール港とモント・ロイアルの間にある森では、あらゆるものが結晶化する謎の現象が起こっていました。紆余曲折の末、サンダーズ博士はモント・ロイアルに辿りつき、スザンヌと再会を果たしますが、スザンヌは結晶の森の中へと失踪してしまいます。サンダーズ博士はスザンヌを探して森の中に入り、スザンヌらしき女性を見つけますが、結晶の森に魅了されていて連れ出せるような状態ではありませんでした。サンダーズ博士は一旦森を抜け出します。しかしスザンヌと同じく結晶世界の魅力に取りつかれたサンダーズ博士は、再び森の中へと戻っていきました…。
暗い美しさ
この作品の扉には次のように書かれています。
美しい、しかし奇怪なモント・ロイアルの結晶化した森の様子が描写されています。最後の一文は物語の終わりのほうまで読めばどういうことなのか分かります。
さて、この小説の冒頭の章のタイトルは「暗い河」です。『結晶世界』というタイトルの明るく輝いていそうなイメージとは正反対の出だしです。
マタール河はこれでもかというぐらい暗く陰気な様子に描かれています。また、この作品には物語面でも不倫、病気、精神失調、三角関係、不信仰といった暗い要素が多く出てきます。
それと対照的なのが、結晶化したモント・ロイアルの森です。
なんとも幻想的で美しい描写です。まさに「結晶世界」です。サンダーズ博士によれば、森の外の世界は光と闇が二分された世界で、この森の中の結晶世界は光と闇が折衷された世界であるということです(pp. 184-186)。
結晶の輝く美しい森と、その中で繰り広げられるデカダンスという光と闇が折衷された、暗く美しい雰囲気がこの作品の魅力です。
森の結晶化
結晶化の原因
結晶化現象がこの作品のSF要素です。この現象に関しては、109ページから110ページにかけてサンダーズ博士の推測による説明があります。問題となっているのは「時間の涸渇」です。中学の理科の時間に、食塩水を熱すると食塩が析出してくる実験をしたことがあると思いますが、僕の理解ではそれと同じようなことが起こっているということだと思います。「水」は「時間」で、「食塩」が「物質」です。時間がなくなることによって、物質が結晶として析出するというようなことが生じているようです。なぜ時間が涸渇しているかというと、「反物質」と同じように「反時間」というものがあり、物質が対消滅すると時間も対消滅して時間がどんどん減っていくという状況下で、「反銀河系」が誕生したことによって激しい対消滅が起き、時間のストックが急激になくなってしまったというようなことだと思います。僕の理解で合っているかは分からないので、気になる人はこの本の該当ページやその他参考になる箇所を読んでみてください。
結晶の森という楽園
結晶の森の美しさは単なる視覚的なものではなく、もっと内容を伴ったもののようです。サンダーズ博士はモント・ロイアルの森の結晶化を見て次のような感想を抱きます。
ワーズワスはイギリスのロマン派に分類される自然崇拝・神秘主義詩人です。ここで言われている「プリズムのような光云々」の詩がどれを指しているのかは、手元にある岩波文庫の『対訳 ワーズワス詩集』をぺらぺらめくってみても見つからないので分からないのですが、この小説の最終章のタイトルが「プリズムのような太陽」ですから、この作品にとってかなり核心的な詩なのではないかと思います。
ワーズワスは幼少期の自然との一体化体験を自らの根底にもっている詩人です。結晶の森は何かそういう調和した世界を思い起こさせるということなのかもしれません。
「時間と空間の統一」というのも自然との一体化に通じるような何かなのでしょうか。古代の楽園ではそのような統一が起きていたらしいです。
別の箇所(p. 170)でスザンヌはこれまたイギリスのロマン派詩人シェリーの「人生は、多彩なるステンド・グラスのドームのごとく、永遠の白き光輝を汚す」という言葉を引用して、森の結晶化を表現しています。「人生における雑多な出来事は、本来的な一なる永遠の輝きを見えなくする」というような意味だと思います。「永遠の白き光輝」というのは何か究極的な実在のことです。有名なロマン派の詩人は大いなるものとの神秘的な一体化体験を通底したテーマにしている人が多いです。
結晶の森はその内実としては、このように調和のとれた、神秘的な楽園であるということが言えるのではないかと思います。
時間なき永遠?
この作品では「時間」が鍵となっています。その「時間」についてのサンダーズ博士の言及を少し見ていきます。
「時間は死の下僕にすぎない」。原爆の父・オッペンハイマーが『バガヴァッド・ギーター』の一節を引用して「我は死神なり、世界の破壊者なり」と述べたことはよく知られています。これは『ギーター』の第11章第32節にあり、原文から抜き出すと"kālo 'smi lokakṣayakṛt"の部分です。「死神」と訳されているのは"kāla"という語です("kālo(kālaḥ)"は主格形)。この語は本来の意味としては「時間」で、この箇所でも本当は「時間」だと思われるのですが、ここで「世界の破壊者」と同列に語られているように、派生的に「死神」という意味もあります。時間は死神なのです。
僕としては時間が涸渇しているので時が流れず、永遠だという解釈をしていたのですが、上で見たように、「時間と空間の統一」という概念が打ち出されています。そしてそのようなことが起こっている場所が「楽園」だということです。この辺りが僕もよく理解できてないのですが、時間がゼロになって空間と一体化したような状態を統一と呼んでいるのかもしれません。
バルザス神父
この作品には「バルザス神父」という陰の雰囲気がある神父が出てきます。この神父は自らの不信仰に悩んでおり、さらには異端的な思想も抱いています。
キリストの聖体はいたるところにある。同じページの他の箇所では「神が葉の一枚一枚、花の一輪一輪に存在し給う」とも言い換えられています。こういう汎神論的な考えは無神論と紙一重です。その辺の葉っぱや花を神だと言うのは、神の超越性を棄損するものであり、そんなものが神と呼べるのかという疑問にぶつかります。そうでなくてもその辺に神がいるならわざわざ教会に行く必要もないでしょう。事実、バルザス神父は「教会はもうその使命を失ったのではないか」というようなことまで言ってしまいます。アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞したタゴールの『ギーターンジャリ』は神殿に神はいないというようなことを詠っていますが、これと通じるところがあります。
タゴールにおいてもそうですが、神秘主義と汎神論は近い関係にあります。神秘主義は究極実在との一体化を主要素としていて、その究極実在が「宇宙」や「世界全体」と同一視されると汎神論になります。恐らくバルザス神父の思想は先ほど引用されていたワーズワスやシェリーと同じような流れを汲んでおり、結晶の森には神秘主義や汎神論という思想が組み込まれているのではないかと思います。
また、眼が結晶化しているニシキヘビを宝石の十字架で元に戻す象徴的なシーンがあります(p. 221)。結晶化した森は「古代の楽園」とも言われていたので、この蛇はやはり「結晶化の解除は失楽園である」というようなことを暗示しているのでしょうか。
『結晶塔の帝王 エンテイ』
『劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王 エンテイ』は2000年に公開されたアニメ『ポケットモンスター』の映画第3弾です。世代的にはポケモン金銀に当たります。この映画でも「グリーンフィールド」という町が結晶化していくということが起こるのですが、それはバラードの『結晶世界』にインスパイアされたということが、脚本を担当した首藤さんによって語られています(2024年12月7日閲覧)。
主要な問題である結晶化の原因については両作品とも互いに異なっています。『結晶世界』の結晶化の原因は時間の涸渇でしたが、『結晶塔の帝王』ではアンノーンというポケモンの力が原因です。物語の主要人物であるミーは両親を失ってしまい、「パパとママとずっと一緒にいたい」という願いを抱きます。その願いにアンノーンが反応して、空想の世界が誕生します。結晶化はその空想世界の広がりを表わしています。
先ほどの首藤さんのコラムによると、『結晶世界』に対する関心は主に結晶化現象に向けられていて、その映像化に力を入れたというようなこと書かれています。また、物語に関しては全く異なっているとも言われています。しかし両作品の物語における相違についても少し面白いと思った点があって、それは『結晶塔の帝王』では結晶化されたグリーンフィールドのことを登場人物の誰一人として「美しい」とは言わないことです。むしろ結晶が全てなくなって元に戻ったとき、「これが本当の」「グリーンフィールド」「綺麗だ」というセリフがあります。一方、結晶化されたモント・ロイアルの森には確かに奇怪さもありましたが、この記事でこれまで取り上げてきたように、その美しく魅惑的な様子もたびたび描写されていました。
この点を糸口に両作品の物語について一言述べるなら、二つの作品は「対照的」だということが言えると思います。『結晶世界』の結晶の森は「永遠」「統一」「楽園」など妖しげな魅力に満ちた世界でしたが、『結晶塔の帝王』での結晶世界は単に奇怪なものです。サンダーズ博士は結晶化が進行する中で不倫や不信仰が繰り広げられるモント・ロイアルの森から一旦は脱出したものの、結局は結晶世界の魅力に惹かれて森に戻っていってしまいます。ミーは当初は結晶で塞がれた自分の空想世界に閉じこもっていましたが、仲間と出会い、エンテイから父親としての愛を受け、外の世界に出ていきます。
要するにこの2作品を対比させると、『結晶世界』は不健全な美しさのあるデカダンス小説、『結晶塔の帝王』は愛と夢がある健全な反デカダンス映画という風に言えるのではないかと思いました。
終わりに
妖しげな暗く美しい雰囲気のあるこの作品は、一度読んでもたまにまた読み返したくなる魅力があります。結晶の森は外面的な美しさだけではなく、神秘主義や汎神論といった思想的なものも織り込まれているようです。また、SFよりも雰囲気や文学的要素で読ませる作品だと思います。
『結晶塔の帝王』も久しぶりに見たのですが、こちらはこちらで「幼年時代のあまたのイメージが心に溢れだし」ました。最近ではもう主人公もサトシではないんですよね…。