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『無名』

朝、男は3ヶ月ぶりに座って食事をした。
コーヒーを淹れて、トーストを焼いた。3ヶ月間、立ったまま食事をしていた理由は男にもわからなかった。仕事が上手くいかないからか、金の工面か、人間関係か、そのどれでもないような気もするし、どれもがあてはまるような気もした。
男は無名の作家である。作品はほとんど売れなかった。熱狂的な読者がわずかにいるだけであった。男は書くことをあきらめようかと考えていた。適当な職をみつけて、適当な生活を送り、適当に死を迎える。それでいいじゃないか、そんなことを考えていた。
男の部屋には書きかけの原稿や読みかけの本が散乱していた。台所には洗い物がたまっていた。洗濯をほとんどしないから、3日間は同じ下着を着回した。
「適当でいいじゃないか」
いつからか、男は何度もつぶやくようになった。
それは呪文のように、自分に呪いをかけるかのように、男の吐いた文言は中空を舞う塵のように毎回消えていくのだった。それがちょうど良かった。男がただ目の前の、何もない空間をぼんやりとみつめるには、それがちょうど良かった。

今朝はコーヒーとトーストだけでは物足りなかった。冷蔵庫に蕎麦があったっけ、男は冷蔵庫を開けた。スカスカの冷蔵庫の中には、スーパーで1袋38円の蕎麦が2袋あった。男は小さな鍋にお湯を沸かして、残り少ない麺つゆをいれた。こぽこぽと心地良い音がなりはじめ、湯気が立つと蕎麦を2袋、男は勢いよく放り込んだ。他に入れるものはなかった。さらに煮立ててから、蕎麦を器に入れようとしたが、器がなかった。仕方がないから男は器を洗うことにした。スポンジに食器用洗剤をつけて泡立てた。器を洗うにも小さなシンクは苦戦する。癪だから、男は器をピカピカに洗った。いけない、いけない、と思った。男は夢中になると他のことを忘れてしまうところがある。おれは熱々の蕎麦を食べるのだ、男は蕎麦を鍋から器に流し込んだ。男にとっては、蕎麦を作るだけでも一苦労である。
蕎麦をつくった。この事実が、男に多少の自尊心を与えた。男は熱々の蕎麦を箸いっぱいにつかみ、勢いよく口に入れる。喉が煮えたぎる想いだった。蕎麦は熱くて、美味かった。今まで食ったどの蕎麦よりも熱くて美味かった。よく見ると、器の端にちいさなシャボンがついている。キラキラしていて綺麗だ。男は喉から全身に染み渡る蕎麦の熱を感じながら、万華鏡のようなシャボンに溶けていく自分を想像した。熱を感じるのも、写し出されるのも、すべてが自分なのだ。いつかは、消えてしまう。男は頬を流れている液体を感じた。どれくらいぶりだっけ、男は久しぶりに涙した。男はそのまま蕎麦を啜る。涙が流れる。蕎麦を啜る。涙が流れる。男の顔は涙と鼻水と蕎麦の汁でいっぱいになった。男はさらに勢いよく蕎麦を啜る。涙が流れる。蕎麦を啜る。涙が流れる。蕎麦を啜る。美味い、うまい、おれは本気だったぞ。おれは、本気だったぞ。

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