創作大賞2024応募作品『KOKUEN』
彼は鉛筆を13時間削り続けていた。
別段珍しいことではなかったが、今までのそれとは何かが違った。何かが違う、といっても私にはわからない。本来ならば、作者は書かない設定こそ大切にしておくべきだろうが、私にはわからないのだ。彼は私をすでに通り過ぎている。私の手から離れ、どこか遠い、ふるさとのような場所に行ってしまっている。坂口安吾はそれを「文学のふるさと」と表現した。が、ここでいう私のふるさとは違う、もっと低俗で、悪臭すら漂う、それでいてなんだか楽観的な場所だ。安吾の書く「ふるさと」のような、文学的な、高尚な、神秘な場所ではない。話を戻す。まだ4月だというのに異様な程蒸し暑い夜だ。彼の長い前髪は額にべったりと張り付いていた。食事はおろか、水分すら取っていない。口の中はカラカラだったに違いない。違いない、というのは私、作者の意見である。書いている私は彼の口の中まではわからない。仮説を立てているに過ぎない。異様な程蒸し暑い夜に何十時間も水分すら取らずに鉛筆を削っている、口の中はカラカラに違いない、というわけだ。ちなみに鉛筆はトンボ鉛筆のBである。私はこの鉛筆が好きで何本も所有しているわけだが、とりわけ……いけない、いけない、どうも話がズレる。私は元来お話し好きなのである。話を戻す。机に転がっている3本の鉛筆は全ての木材が削られ、芯だけが黒く光っていた。なまなましいそれは、まるで黒光りした蛇がこちらを睨んでいるかのような姿だった。定期的にのぞかせる紅い炎のような、ちいさな舌はこちらを威嚇し、また誘っているかのようでもあった。紅い炎とは血である。彼は鉛筆を削っているとき何度も指先を切っているのだ。ちなみに使っているナイフはウイグルナイフである。ウイグル人はお気に入りのナイフを持ち歩き日常的に使うという。女性から男性への贈り物として用いられることが多い。つまり男性的な、力、生命力を現している。柄は真鍮で黄金色に輝いている。(彼の持っているナイフはその輝きが消えて黒ずんでいる。)どうもな、話がズレるのです。さて、ナイフで切れた指はというと、切れる度に血がぽたぽたと垂れる。流れた血は、削られ剥き出しになった芯の先端に落ち、満ちて染み込む。その芯の様子はさながら紅い舌を出したときの蛇である、とこういうわけである。はあ。今私は書き手としていちばん恥ずかしいことをしている。おわかりだろうか、説明をしているのである。あなたに。これを今読んでいるあなたに私の書いた描写の説明をしているのである。作家にとってこれほど恥ずかしいことはない。死にたくなる。(でもね、だけどね、あなただって。同じことをしているのさ。小声で。)話を戻す。彼は鉛筆を削っているときの鼻腔に届く木材の香りを愛していた。なかなかの出来だな、彼は黒鉛で汚れた手を擦りながら、ひとりごちた。あと、2本は削っておきたい。意味などはない。彼にとって鉛筆を削る作業は無に等しかった。なんでもないこと。しかしそれがやめられぬ。それをやめたら自分が自分でいられなくなる、彼はそう思い込んでいたのだ。はあ。またである。どうもな、今夜はいけない、私の「説明したがり」が顔をだす。こんなときは強い酒でものんでぐっすり眠るに限る。と、ここで物語は一気に加速することになる。
衝動。
彼は苦労して木材を削りとった黒鉛を粉々にしてみたくなったのだ。と、次の瞬間にはナイフの柄で押し潰し粉々にしていた。黒鉛は飛び散り、霧のように中空を舞った。机上の読書灯がそれを照らす。黒鉛はどこからともなく入ってくる風に揺らされ、散り、広がっていった。彼はもう一本の黒鉛も潰した。またもや黒鉛は風に乗り、そこいら中に散っていく。彼は3本目の黒鉛にも指を伸ばした。その指先は血で塗れていた。もう黒鉛が蛇なのか、指が蛇なのかわからなかった。彼の指が黒鉛を捉えた。離さなかった。押し潰された黒鉛は仲間と手を繋ぎ彼の目前で舞った。それはもはや舞踏であり歌であり祈りでもあった。風が容赦なく吹きつける。黒鉛はさらに広がりをみせる。彼の目前だけではなく、部屋全体にまで広がっている。真っ暗じゃないか、真っ暗じゃないか。風が吹き、黒鉛が舞う。黒鉛が吹き、風が舞う。真っ暗じゃないか、真っ暗じゃないか。
彼の部屋の天井には小さな穴が空いている。
私はそこからみつめている。
真っ白な原稿用紙に突っ伏した彼が、声をあげて泣いている。