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創作大賞2024応募作品『銀の糸』

男は線を引くことに取り憑かれていた。
内容はなんでもよかった。その日の気分次第。簡単な絵を描くこともあれば、日記やエッセイ、ショートショートを書くこともあった。真白な紙にどれだけの細い線を引くことができるか。その線をどこで繋げ、重ね合わせることができるのか。毎日が実験だった。男にとってそれだけが重大な任務であった。

まず一冊のノートを用意する。無地が好ましい。次に愛用のメカニカルペンシルを持つ。一度ノックをすれば芯が切れるまで自動で出続けるものだ。芯計は0.2㎜、濃度は2Bと決まっている。そしてノートを180度に開き、浮かんだ言葉を書く。何も思い浮かばないときは「何も思い浮かばない」と書く。何回も書く。「何も思い浮かばない」と横書きしたならば、「何も思い浮かばない」と縦にも書く。そのときは先に書いた「何も思い浮かばない」の「浮」の文字と後に書いた「浮」という文字を重ね合わせるように書く。すると十字架ができる。「何も思い浮かばない」という文字で彼は十字架をつくる。それを何個もつくる。ノートに無数の十字架を浮かばせる。男はすぐに十字架を破壊したくなる。十字架の上に右斜め上から「何も思い浮かばない」と書く。そして左斜め上から「何も思い浮かばない」と書き足す。十字架は星に変わる。ノートには無数の星が散りばめられる。綺麗だ、キラキラしてらあ。男は独りごちる。思考が加速する。星々の隙間、空白を塗りつぶしたくなる。芯は充分にある。しかも自動で出続けるのだ。何も心配はいらない。男は星々の間に「何も心配はいらない」と書く。細かく。小さな文字で。何も心配はいらない、何も心配はいらない、男は自分に言い聞かせるように書く。やがて星々の間に「何も心配はいらない」という河が流れる。黒い河は無数に浮かんだ星々の間を細く流れている。どこまでも流れている。まだ足りない。もっとだ、もっとだ、汗で湿った男の手がノートを波状に変化させる。黒い河は波打ち流れていく。

銃の引き金を引く音がする。

それは男がメカニカルペンシルをノックした音だ。男はノック音に肝を冷やす。静寂に包まれた部屋にはノック音がトリガーになることがある。弾は出ていない。銃はトリガーを引いただけでは撃てない。弾がないのだ。否。芯がないのだ。おかしい、弾は、芯は充分に入れてあるはず、男は弾を装填する。否。芯を入れる。カチッ。不発。弾は出ない。否。芯は出ない。カチッ、カチッ。不発。故障かしら、男の手はさらに汗でベトつく。カチッ。銃弾一発。発射。否。芯が出る。男はほっとする。カチッ、カチッ。銃弾二発。否。芯はきちんと出る。男は安心し、余分に出された芯をガイドパイプに押し込む。これで準備は整った。男は銃口をノートに向ける。否。ペン先をノートに向ける。真っ黒になったノートに穴があく。否。力み過ぎてノートに穴をあける。手は血で塗れている。否。黒鉛で汚れている。男はガンマンよろしく標的を探す。否。ピントのズレた目でノートの余白を探す。なんでもいい。何かを書きたい。線だ。線を引きたい。縦に一本。横に一本。また十字架をつくる。右斜め上から一本。左斜め上から一本。星をつくる。否。蜘蛛の巣に見える。真っ黒なノートの片隅にか細い線で編まれた蜘蛛の巣に見える。銀糸で編まれたちいさな蜘蛛の巣だ。そこを蜘蛛が這う。何かを探している。獲物は捉えていない。小さな巣の中を蜘蛛は這い回る。男は巣の中に「あい」と書く。蜘蛛は「あい」に気づかない。ここにあるぞ、男は独りごちる。ここにあるんだ、蜘蛛は気づかない。さあ、ここだ、蜘蛛の動きは完全に停止している。

男の目の前に一本の銀糸が垂れている。
銀糸は細く透き通り、風もないのに揺れている。男は銀糸に気づかない。男は何度も蜘蛛に話しかける。

ここにあるぞ、ほら、ここにあるぞ!

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