【短編小説】警察屋さんの詐欺師
うらぶれた、いかにもな路地裏にその建物はあった。夕暮れ。薄闇が巣を成して群れていそうな路地は、足を踏み入れるのに勇気が要った。この路地に入ってからは誰ともすれ違っていないが、男は一応辺りを見渡して、誰にも見られていないことを確認した。
雑居ビルの二階にある、錆びと埃の中でただ朽ちるのを待つだけに見えるドアを半信半疑でノックする。三回、間を開けて五回。音は思いのほかよく響いた。団地にあるような、金属製だが中身は空洞な玄関扉。訪れる客人を決して歓迎しない歪(ひず)んだ拍動のような響きが、階下にも階上にも届いただろう。男は思わず身を竦めた。誰にも見られてはいけない。勘付かれてもいけない。どこに目があるかわからない。後ろめたさが、つつーと背中を指でなぞったような気がした。それがただの冷や汗だとは、この時の男にはとても思えなかった。
ノックを受けて、扉の奥ににじり寄る気配がある。それはゆっくりと、殊更にゆっくりと床板を鳴らし、やがて金属扉の前に辿り着いた。男はこれまでの人生において、『視線を感じる』という現象について懐疑的な立場を貫いてきた。視線には質量がない。それを、精巧だが貧弱な人間の感覚器官で捉えられる筈がないと断じてきた。オカルティスト共の妄言だと切って捨てることになんの躊躇いもなかった。だが、金属扉に空いた小さな穴からは、警戒と猜疑心に塗れた、確かな質量のある粘っこい視線を感じずにはいられなかった。その温度さえわかるかもしれない。体験した者にしかわからない、ある種の確信が男に芽生えた。視線とは、ぶつけることのできる、形をもたない何らかの物であると。
我に返った男は、ビジネス鞄に手を突っ込み、急いで現金を取り出した。分厚い封筒から帯付きの束を二つ覗かせ、金属扉の穴から確認できる位置に構える。仕事の依頼に来たのだと伝えるために。
暫くの間、男は捨て置かれた。遠い高架を走る電車の音が微かに聞こえる。今にも崩れそうな雑居ビルの踊り場で、扉に向かって二百万を見せつける男。夕は暮れ、闇がじわじわと目覚め始める。
地に落ちた烏を踏みつけたような鈍い音に、再び身が竦む。すぐにそれは開錠の音だと気付いたが、同時に自分の神経の細さを思い知った。雰囲気が寄り過ぎている。非合法の、裏の世界に。
金属扉が薄く開き、その奥から低くざらざらとした男の声がする。
「ここに入るだけでもその束一つは貰うぞ」
「ええ、伺っています」
「気に食わない仕事は受けねぇ」
「はい。先ずはお話を聞いていただこうと」
「……入れ」
乱雑に物が積み上がった狭い廊下を、土足のまま歩く。通されたのは作業場だった。窓のない――あるいは埋めた――六畳ほどの部屋に、壁一面を覆う本棚と、応接用らしいボロボロのソファーセットがある。奥には机が一脚とパイプ椅子。見渡す限り全ての場所に小難しそうな本と書類が乱雑に積まれ、今にも崩れそうな不均衡な山は、しかし互いに支え合うことで均衡が保たれているようだ。『社会』というタイトルで前衛芸術として公開すれば、毎月の生活費くらいは払う好事家がいるかもしれない。いや、こんな凡な発想では歯牙にもかからないか。
奥の椅子に一人だけ座った男が手の平を差し出してくる。入場料を寄こせということだろう。札束をひとつ手渡すと、机の引き出しを開けてそこに放り込んだ。金の扱いが雑だ。裏社会に身を置く男にとっては、はした金なのかもしれない。
「要件は」
彼は職人然とした簡潔な会話を好むようだ。それに倣った方がいいだろう。間違っても時候の挨拶などを口にするべきではない。臍を曲げられてはならないのだ。
「これを……作っていただきたい」
客の男は立ったまま、座った男と対峙する。懐から一枚のプラスチックカードを取り出して、手渡した。
「……医師免許か」
「そうです。新しいタイプの」
医師免許――医師資格証は、賞状のような大きな紙だった。とても持ち歩きが出来る代物ではなく、身分証明としての機能はないに等しい。それが近年、運転免許証のように、顔写真付きのカードタイプが作れるようになった。
「この粗末なもんは誰の仕事だ」
「それは私が。いずれ必要になるかと、少しずつ作っていたのですがそれが限界で」
「……同業の仕事じゃなくてよかったよ」
この裏社会の男は、一部の人間からはニンベン師と呼ばれている。ニンベン師とは『偽造』の『偽』に含まれる『ニンベン』からくる隠語で、つまりこの男は運転免許証やパスポートなどの偽造を闇で請け負っている詐欺師の一人だった。
この世界では大ベテランと言っても過言ではなく、これまで彼が作ったものは一度も偽物だとバレたことがない。その腕前と、長年仕事をしているにも関わらず、誰にも捕まらずに逃げ切っている危機察知能力――嗅覚などに敬意を表して、伝説のニンベン師と持て囃され、一部では密かに後世まで名を残す男だ、と、そういう噂を聞いて客がやってくる。
「これはたけぇぞ。学生証なんかのお遊びとは違う。お上を完全にだまくらかさなきゃならねぇ。あんた、いくら払えんだ」
「即金なら二千。後払いで五千、用意してあります」
「……そんだけ払いがいいならよ、真っ当なお医者様にだってなれんだろ」
「ええ、そうでしょうね。でも私には不可能なのです」
「話してみろ」
「少々長くなりますよ」
「……」
「……では」
客の男が語りだす。
男はかつて医者を志す学生だった。とても優秀だったが、優秀だった故に妬まれることも多く、嫌がらせをしてくる者もいた。そういった類の輩は相手にしないよう努めたが、一人、ネジの外れた男に目を付けられた。奴はどれだけ往なしても、無視しても纏わりついてきた。何もやり返さず、ただ耐えた。相手にされない男は、次第にエスカレートしていった。
ある日、警察が家にやってきた。身に覚えはなかったが、嫌な予感がした。家宅捜索を受け、自宅から違法薬物が見つかった。完全な冤罪だった。結果的に実刑は免れたが、絶対に医者になることはできなくなった。それから十五年。全てを忘れ、別の道を歩んできたが、風の噂で奴の順風満帆な人生の一端を知った。許せないと思った。自分と同じように全てを失わせてやりたい。できれば薬品の横領とか、不正使用などの罪を着せてやりたい。その為には奴と同じ病院に勤務しなければならない。思い付く限りの様々なハードルはなんとかクリアできる見込みがある。だが医師免許だけは、自分の力ではどうにもならなかった。
男はたっぷり時間をかけて話した。ニンベン師はその語り口や所作から、確かに男が優秀な頭脳を持っていること、罪を犯したことのない真っ当な人間であることなどを嗅ぎとった。嗅ぎとった上で、言った。
「やめておけ」
「なんでですか! あなたのことは何があっても喋りません。金も言い値で払いましょう。私にはあと一つだけ、この医師免許だけがどうしても必要なんです。あなたの腕が必要なんです。それさえあれば、この復讐さえ完遂できれば、私は自分の人生をもっと大切に思える筈なんです」
男は膝をつき、土下座する勢いで頼みこむ。それを見てニンベン師は笑った。
「向いてねぇよ。あんたみたいなタイプはダメだ。あんたは賢い。だが、それはあくまで社会って枠組みの中での話だ。野性味がねぇんだよ。お利口なうさぎさんだ。あんたを嵌めたクズ野郎はその点、間違いなく肉食獣だろう。つってもまぁ、ライオンとか虎なんかじゃねぇ。精々ハイエナだろうけどな。俺はあんたみたいなやつが、完璧な計画とやらを信じて道を踏み外すのをよく見てきた。その後はどうなったかわかるか?
うさぎはハイエナには勝てねぇ。やる前よりもっとひでぇ怪我をさせられてお終いだ。食われてねぇだけマシだって思いながら生きていかなきゃならねぇ。それを体の奥の奥、心の芯の部分で理解させられちまう。絶対に勝てねぇ相手だって頭で理解しちまう。あんたたちは賢いからな。頭がそれをわかっちまったら、もうどうやっても覆せねぇ。今はまだ卑怯な野郎に『陥れられた』だけだからよ、もしかしたらって夢を見ちまう。だけどな、心が『負けた』って理解したあとの人生は悲惨だぜ?」
「ですが! 私は――」
「そいつらとは違う、だろ? 俺はうさぎなんかじゃねぇって思いたいんだよな。聞かなくてもわかる。だが、俺に言わせればあんたはうさぎだ。どう見ても食われる側だ。それはもうすぐ身に染みてわかる筈だ。悪いことは言わねぇ。全部忘れて生きていけ。別に復讐を止めたいんじゃねぇよ。復讐することで心が平穏になるってんなら結構だ。素晴らしい。だがな、せめて同じハイエナになってから言えってことだ。うさぎさんじゃ話にならねぇよ」
「……私は……うさぎなんかじゃ……」
「とにかくあんたの仕事は受けねぇ。帰んな」
ニンベン師の有無を言わさぬ口調に圧され、男は帰っていった。客が金属扉を開け、階段を降り、雑居ビルから出て、裏路地から表の世界に帰るまでをしっかりと確認してから、ニンベン師は声を出し、笑った。
「ぎゃははは! 体の奥の奥ってどこだよ! 我ながらよく回る口だぜ」
ニンベン師はこれまで一度も偽造品を作ったことがない。
だから一度もバレたことがない。
この男は空気感の演出と、良く回る口だけで『入場料』を稼いで生計を立てている。
当然、騙すのは素人だけだ。本物の闇には決して手を出さない。金属扉ののぞき穴から観察するだけで、素人と本物とを見間違えたことはなかった。素人に見えても、言いくるめられないような相手なら決して扉を開けなかった。男が生き残ってきたのは、そういった優れた嗅覚があってのことだ。
男はある種の皮肉を込めて、この店をこう呼んでいる。
『警察屋さん』と。
犯罪を抑止するべく、潜在的犯罪者を煙に巻いて表の世界へ帰してやる。そんなサービスを提供する代わりに金を受け取っているのだ。これは本来、警察が担うべき役割だと男は考えていた。だからこその命名である。
男はこの店を結構気に入っているらしい。
妻も書いております。
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