【短編小説】僕が鋼鉄だったなら
「そんな、君が、零れて――」
「なんだね。急にどうしたんだい」
雑踏。夏の日差しは相変わらず容赦がない。横断歩道の真ん中で立ち止まった友人Aと、仕方なくそれに連なる僕。通行人A、Bから、突如、障害物A、Bにクラスチェンジした僕らを、あからさまに呪いながら通り過ぎていく通行人C以下の人々。
まったく失敬である。はたして僕は呪われるほどのことをしたのだろうか。たかが、横断歩道の真ん中で立ち止まっただけじゃないか。いやいや、しかし、よくよく考えてみれば、先ほど僕をこれでもかと睨みつけていった通行人Dにとって僕の行いは、筆舌に尽くしがたい程の苦痛を伴っていたのかもしれない。両親を目の前で殺される以上に憎く、思わずノータイムで呪ってしまう程に。あくまで可能性の話でしかないけれど。
しかし可能性を否定することができないのであれば、常識という多数決に委ねるしかないわけで、僕が認識する常識というのは僕が構築した世界の中での常識でしかないわけで、つまり通行人Dをノータイムで呪い返してしまった僕は、極めて浅慮と言わざるを得ない。あぁ、なんと愚かで蒙昧な自問自答。答えが出たからといって、通行人Dに謝りに行くわけでもないのに。まさに不毛。それもこれも、急にこんなはた迷惑な場所で立ち止まった友人Aのせいなのである。
「君は馬鹿だね」
あろうことか僕を馬鹿だと宣うのか。よーしこんにゃろう、1ラウンドKOをくれてやる。キまらないファイティングポーズで痛々しく飛び跳ねながら、はて、僕は馬鹿にされるようなことをしただろうかと、至極真っ当な辺りに思い至った。なんせ、馬鹿と言われた時分の僕は、通行人Fを呪い返すので忙しかったのだから。
「人々を呪うのはおよしよ。そんなの無意味なのだから」
「失敬だな君は。僕は自発的に人々を呪っていたわけではないよ。呪い返していただけじゃないか。その辺を間違ってもらっちゃ困るんだがね」
「困るといって、ほんとうに困った事があるかい?」
「その返し方はあまり得策ではないね。あえて君に馬鹿と言い返させてもらおう。困るというのはあくまで便宜上の言葉であって、つまり不愉快だと言っているのだ。当然君はそれを理解している筈だが、ん? 君が理解した上で言い返してきているのだとすれば僕は言外の意を汲むべきで、現状僕はそれができなかったことになる。つまり僕は馬鹿なのだな。ふむ。君の意見は正しかったと認めざるを得ないね」
「面白いことを言うね。そんな君との別れを惜しむ時間も、もうあまりなさそうだ」
「はて、この横断歩道を渡り切り、汽車の駅まで歩いていくならば、まだ寂寞を味わう時間くらいはありそうなものだがね」
友人Aは暫く俯いたまま動こうとしなかった。言葉にするべきか、飲み込むべきか、十分に悩んだように見せて、しっかりと僕に見せつけてから、重々しい態度で口を開いた。
「視えたんだ。もうすぐここは地獄になる」
「……冗談の類ではなさそうだが、それならもっと早く言ってくれれば逃げられもしただろうに」
友人Aは首を振った。曰く、この雑踏から抜け出そうと右往左往する間に黒焦げになるパターンも視えたのだそうだ。黒焦げとは、いつ何時使ってもポジティブを孕まない忌避すべき言葉である。黒く、焦げるのだ。この場合、僕と友人Aも含まれる何もかもが。
なんせこの交差点は世界一の交通量と名高い。それを誇るべきか否かや、その情報の信頼度はとりあえず置いておくとしても、つまり数分前の僕らが慌てふためきながら逃げ惑ったところで、人生の最期の時間を人の奔流に弄ばれて過ごすことになっていたのだろう。なるほど彼は地獄と言ったのだ。僕は、地獄が局所的かつ突発的に発生するなどと聞いたことはない。この辺り一帯が、渦中の僕らから見れば『世界がまるごと地獄と化す』のだろう。逃げられたかもしれないなどと呆けたことを言ってしまった。いつもいつも口にしてから気付く僕は、友人Aの言う通りやはり馬鹿なのだろう。心外だが!
彼は、彼が視たいくつかのパターンのうち、今更白状するこのパターンが一番マシだと判断した、と付け加えた。
「なんだいなんだい。ずるいじゃないか。君ばかりが死に際して、恐れ、悔やむ時間を得られたというわけかい? ついぞ僕にはそんな機会は訪れなかった! なぜならば今は君を糾弾することで忙しいからね!」
今日は暑い。僕の顎から汗が落ちた。君は涼し気な顔をしている。いつも僕ばかりが醜くて嫌になる。
「はは、変な奴だね。今まさに懺悔したらいいじゃないか。是非ともしてくれ給え。この生の最期に、露わになった君の内に秘めた罪を、その片棒を担いでやるのも悪くはない。この晴れ晴れしい気持ちを無駄にしないでくれよ。どうせ最期なんだ。誰憚ることもなく、欲望を曝け出して見せてくれよ」
「また君は随分勝手なことをいけしゃあしゃあと並べ立てられたものだね。それでは僕ばかりが奇異の目で見られてしまうじゃないか」
「ふうん。君は奇異の目で見られてしまうような破廉恥だったのか」
「君というやつは‼」
どこからともなく、低いプロペラの音が聞こえてくる。大きい何かを積んだ、大きな鉄の塊が、快晴の空を塗りつぶしていく。
「全く、戦争というやつは」
「全くその通りではあるが、僕の言葉を勝手に借りないでくれ給えよ。君にはそういう悪いところがあるからね。自覚して更生し、僕に平身低頭謝罪するべきだ」
「悪かった」
「聞こえなかったのかい? 僕は平身低頭と言ったのだ。平たく言えば頭が高いということでね、今の君の姿勢はとても当てはまら――」
「ごめんね」
「いいんだ」
けたたましいクラクション。人々が僕らを呪い、鉄の塊が腹を開いた。
空を塗りつぶすソレに背を向けて、君を腕の中に閉じ込める。
「……いいんだ」
君の目に、少しでも長く地獄が映らないように。
ほんの少しでも長く、君が生きてくれるように。
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