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愛がなくても弁当はつくれる

平日の朝にお弁当をつくるとき、1本のまま冷やしておいた卵焼きを切ってみて、相対的に断面が綺麗でない2切れを選んで父親の弁当箱に詰めている。そのことを知り合いに何気なく話してしまったところ、「ふつう、逆じゃない?」と返された。
2年間の単身赴任を終えて、父親が東京に戻ってきてから4ヶ月が経とうとしている。洗面所やキッチンなど、朝の支度の動線で絶対に被りたくないので、父親の帰京に合わせてわたしの起床時間は15分早くなった。無駄に早起きすることになったその時間を無意味に溶かすことも悔しかったし、じぶんのお弁当づくりの時間は誰にも邪魔されたくなくて、わたしが父親の分の弁当もまとめて用意する、と母に宣言した。

愛妻弁当という概念の存在しない家で育ったものの、わたしがヒトとして記憶を持ってから単身赴任が決まる前のおよそ20年間、母は父親の弁当をつくり続けていた。朝から不機嫌を撒き散らしながらも弁当づくりだけはやめなかった母の心情がずっと分からなかった。
19歳の夏、母はわたしに「私ひとりでもあなたに不自由のない生活をさせてあげられるなら、今すぐ出ていくんだけど、」と言った。母が毎朝、不機嫌ながらも弁当をつくってダイニングテーブルに叩きつけていたのは、わたしという人間が生きて、ごはんを食べて、きれいな服を着て、あたたかいところで眠って、おまけに大学なんか行きたがるせいだった。でも、わたしという人間のスタートボタンを押したのはあんたがたでしょう。わたしはじぶんで望んでこの世に現れたわけではないし、勝手に始められた人生に自我を持ちはじめたころにはすでに愛妻弁当の世界がなかったのに、母の不機嫌を被るのはどうしてわたしなのだろうか。きらいなら、弁当くらいじぶんでつくらせたらいいのに、と思った。

あんたの稼いだお金でご立派に成長なさった23歳の娘はぴかぴかの卵焼きを焼けますよ、という気持ちで綺麗な断面を見せびらかすように弁当へ盛りつけたって、父親は何ひとつ感想を寄越さなかった。わたしがつくったと分かっている日の夕飯には、ロボットが読み上げた台詞みたいに「これおいしいね」と言うくせに、弁当については何も言わない。ありがとうもごちそうさまもなく、テーブルの上から無言で持ち去り、帰宅後は無言で容器を洗う。半ば腹いせのように、インスタで見るかわいい盛りつけを真似してつくった日も、無反応で蓋をしめると、そのまま弁当箱を縦向きにして保冷バッグに仕舞い、家を出ていった。この人とは戦うだけ無駄だ。
ごはんと、その上に梅干し、おかずが4種類。それさえ満たしていれば何だっていいんだよ、と母は言っていた。朝の支度中に顔を合わせたくないという、ただ1点の動機のみで、父親の弁当をつくり続けている。冷蔵庫から4種類のおかずを取り出し、レンジで温め、粗熱が取れたら詰める。実質稼働時間は8分に収める。毎日、ここに塩を多めに盛ることもできるのか、と考えながらつくっているくらいで、愛なんて当然存在しない。

なんでひとり暮らししないの?と訊かれるたびに心が痛む。わたしだって学生時代からずっとそのつもりで耐えてきたし、やろうと思えばいつだって始められる。分かっているのに、つい数日前も6ヶ月分の定期券を継続購入してしまった。甘えているのだろうか、と考える反面、父親から離れたくて仕方ないわたしの気持ちが母を傷つけることも学んだ。わたしの父親をあの人にしたのは紛れもなくあなたでしょうに、と懲りずに考えてしまう日もあるけれど、理屈ではうまく説明ができない感情のなかで暮らしている。だからこそ、どれだけ父親に苛立ちをぶつけようと母が弁当づくりだけはやめなかった気持ちも何となく分かるようになってきた。
「愛妻」とは程遠くても案外、弁当はつくれてしまうこと。それが、途切れそうな関係をつなぎとめる唯一の手段であったこと。
どれだけ振り切ろうと、血縁関係はついてまわる。ならば家の外から無理に理解されなくたっていい。わたしにとっては無駄に15分早起きして弁当をつくることが、あの人を親として認識する最後の儀式なのだと思う。

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