【小説】年下の男の子 下
「千夏さん、そろそろ休憩行こっか。」
上司にそう言われ、休憩室に向かった。
休憩室には、長机とパイプ椅子が4脚、それとどこかの国のゾウの置物がたくさん置いてある。
休憩室の扉を開けると、いつもと同じようなダメージまみれのネイビーブルーのTシャツに、寝癖いっぱいの彼が座っていた。
「おつかれ様です。久しぶりですね。」
「穂高くんおつかれ様。爪、すごい色だね。」
穂高くんは、近くの美術学校に通っている学生で、いつも何かの塗料で指先を染めている。
わたしは穂高くんと寝たことがある。情熱的で暴力的なセックス。彼の華奢な背中とは不釣り合いな大きく角ばっている肩甲骨。果てる時にぎゅっととじる目。わたしはすぐに恋に落ちた。
休憩室にはわたしと彼のふたりだけ。穂高くんは林檎をかじる。どこかの死神にでも憧れているのだろうか。
「今日も林檎だけなの?」
はいそうです、と青く元気いっぱいの返事とは裏腹に、わたしはその彼の歯型のついた林檎をいやらしく見てしまった。
「そういえば、僕のヘッドフォン、役にたってますか?」
うん、お陰様でね、と自販機で買った缶珈琲を飲みながら返事をする。
彼からもらったヘッドフォン。わたしのお守りのヘッドフォン。
彼の真正面に座り、整った白い顔を見つめた。
ほっぺたには小さなそばかす達と、口元にはほくろがふたつ。目線をおろす。大きく投げ出された彼の脚。
「穂高くん、靴紐。解けてるよ。」
「結んでくれる?」
しょうがないね、といい、わたしはその場で跪き、穂高くんの靴紐を結ぶ。
彼のために何かできることは、わたしにとってとてもしあわせなこと。そう思いながら、上目遣いで彼を見る。
「よくできました。えらいね。」
わたしの頭を撫でながらそう言い、当たり前のようにキスをした。
何事もなかったように手をひらひらと振りながら、
いつもの場所で待っててね、と、部屋を出て行った。
わたしはきっと林檎のように、顔を赤くしてるだろう。穂高くんばかり、余裕で、年下のくせに生意気で、ずるかった。
彼がくれたヘッドフォンで耳を閉ざし、目を瞑った。
空が黄金色に染まり、店の外に出ると夕方の音楽が流れ、わたしは少し泣いてしまった。一日の労働を終えたのだ。肘辺りまで石鹸で洗い、待ち合わせ場所のドトールに向かう。
途中、浴衣を着たピンク色のほっぺの女の子とすれ違う。
そうか、今日は花火大会なのか。
珈琲を注文し、いちばん奥の椅子に腰掛ける。
携帯のカメラ機能で自分の顔を確認しながら、
真っ赤な口紅をひく。珈琲を飲む。わたしにはどうしても口紅付きストローが不潔にみえてしまうので、
ナプキンで唇とストローを拭った。意味のないことをしている気がする。
彼が退勤するのは、21時。あと2時間くらいだろう。
穂高くんのことは、あんまりよくわからなかった。いつも会うのは、職場か穂高くんの家だけで、デートと呼べるようなことはひとつもしていない。きっといつか、誘われるだろう。淡い期待をしながら、文庫本を片手に彼を待つことにした。
時刻はとっくに21時をまわったが、穂高くんは来なかった。胸騒ぎがする。電話をかけるが出ない。
ドトールは22時閉店。あまり長くいても迷惑になると思ったので、急いで店を出た。
外は、生暖かく、生ごみのような匂いがした。
穂高くんの家は、徒歩15分のところにあるので、
先に向かうことにした。
途中、浴衣を着たカップル達が手を繋ぎながら、腕を組みながら歩いている。
小さい頃から、花火大会が好きではない。
会場は人間の匂いと、食べ物の匂いで充満するし、
何より花火の音が怖いからだ。
ブブブ、携帯が震える。
…………花火観に行ってる。…………
…………誰と?………………
…………好きな子と!…………
鞄の中にあるシフト表を探す。クリアファイルに丁寧に収まっているシフト表は先月のもので、彼は21時退勤ではなかった。
あ、そうなんだ。わたしはいろいろ勘違いをしていたみたい。
不思議と涙は出なかったが、なんだか吐き気がする。付けていたヘッドフォンを道端に投げ捨て、よろよろと歩き出した。
気がつくと、自宅の玄関の扉の前まで来ていた。
扉を開けると、窓をすべて閉めきっていたせいで、
部屋の中はあの日とおんなじような温泉みたいになっている。
わたしはそのまま玄関に寝転がり、そのまま眠りについた。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?