本心に触れる


あなたの本心を言葉や形にして表現してください。

そう言われて、どれだけの人がそのままの本心を寸分も狂わずに表現することが出来るのかと考えれば、そんな人は数少ないのだろう。

月並みに言われることだけれども、表現する段階でニュアンスが変わってしまったり、表現した後でもともとの本心との間に違和感を覚えたりといったことは、多かれ少なかれきっとある。

私にはそれが、実際に、とても難儀だ。どうしても何かが欠けているような、何か余計なものが足されてしまっているような、そんな気ばかりがしてしまう。

自分の本心でさえそれくらいなのに、他者の本心にそのままの意味そのままの形状で触れることなど、とても難しい。

そこにあるギャップを想像や予測で埋めること。

そういう行為は何処まで正当性を持つのか。

そういう行為の何に意味があるのか。



平野啓一郎氏の『本心』を読んでからもう一ヶ月以上が経つ。

最初はこうしてその感想をしたためるつもりはなかった。たった一度読んで纏まった感想を書けるような読書体験を、著者の小説で得たことがなかったからだ。私は大抵、読んでから熟考して、思索したらまた読み直してと、繰り返しながら噛み砕いていた記憶ばかり、読んで来た著書にはあったりする。

だから今回も、ただ一度結末まで読んで、それで少しだけ時間を置いて、少しずつ理解を深めていってと、そうなるのだろうと思っていた。

しかし、読んだとき、なぜだか少しだけ、いやきっとこんな状況に世界がなっているから少し、それだけではいけない気がした。



それでもこうして時間は掛かった。言語化するのを出来るだけ急いだつもりでもそう。

どこかでなにか言語化しておくべきという風に思って、なぜか日に日にどうしても言語化が必要だという気が大きくなって、だけれどそれに相応しいものを見つけ出せずにきてしまったからだ。

私がそう思念した動機はきっと一つだけで、この作品に書かれていることを理解できないような人間にはなりたくない、というものに尽きた。そして理解できることを示すことの出来る行動というものに言語化は付き物で、それが説明できないような人間でありたくない、というものだった。

この作品には、そういう人の根源的なものがあって、だけれどその根源的なものはシンプルなようだが現実においては捉えどころがなくてしかも脆く、頭の中で簡単に否定できるもののように思い込まされる。それも説明に安易な言葉を使ってしまえば、それは本心なのかというレッテル貼りで括られて、本心出ないのであれば偽善的であるということになって、しまいには偽りのように語られてしまう。



そう、作中で表現されるものの否定を許すということは、人を死に追いやって憚りない、ということだった。

この作品は、現代において頻繁に目にし耳にするようになってしまった、人間の生産性と命を量りに掛けることについて、真正面から書かれているのである。

それは物語の主軸として、『AIを駆使し死去した母親を再現する』ことによって、『なぜ母親が自死を望んでいたのか』という答えに少しでも近付こうとする主人公の朔也が、『「十分生きた」と言い残していた母親が追い詰められたのは自身の生活や社会の風潮が故だったのではないか』という疑念を持ち、決して答えの出ようがない亡き母親の本心を問いを続ける姿が描かれることからも、窺い知れる。

そこで繰り返される問いはきっと、誰にでも当て嵌まり得る、とても普遍的なものである。

それだけに、もしこの作品について、この作品のテーマに類似したことについて、例えば何かを誰かに問われたとき、自分の感情を素早く精確で緻密に言語化できないだろうことが、私にとって、自分はこんな程度の者か、という気持ちにさせた。

それは天秤に掛けられている人々を前に、何も説得性のあることを言えないということなのだから、そうだった。

もしその天秤に掛けられた人が、自分自身や自分に身近な人であっても、何もまともなことが言えないと言うことなのだから、そうだ。

分断は作者の本意ではないだろうが、きっとこういう作品理解できるかできないかは、分岐なのだろう。

感情でも、理論でも、哲学でも、損か得かで命が語られるのを言葉で否定できないことで、そこにある理不尽を簡単に受け入れてしまうかしまわないかで、その先にある道は違ってしまっている。

そういう結実として、日本においては今のように冷酷な社会が出来上がっている。

だからこそ、こうして今何かを言語化して、私は自分を守りたかった。



”一度しか見られないものは、貴重だ”と始まり、”たった一行の文章の中でも、人間は変化しながら生きている”という一文で終わる冒頭のページにあるように、人は一瞬一瞬という一度しかない変化の積み重ねであって、貴重なものだ。

貴重であって、代えがたい。

それを前提として、それは前提であるべきなのだが、そんな前提の上に『価値のあるもの』という物差しが姿を現すと、その前提を曖昧模糊とした計れないもの、その前提を無意味なものにしてしまう。

なぜなら、それらは秤にかけてしまえば、いや天秤にかけることそのものが、なにかを数値にする現代の価値観でもって、人の命は貴重であるという前提であった価値観を上書きする行為であり、なにもかもを瓦解させてしまうからである。

例を上げるなら、作中で朔也は自死を望んでいた理由として母親が生前、まだ手許にお金がある内に朔也に少しでも遺産を残したかったのだと聞かされ、朔也は母親の"立派"な想いを踏み躙る息子のように言われる。

現実においても、仕事がなく社会に貢献せず税金も納められない人について、この作品において一人の主要な登場人物にあるような障がいがある方について、年収が幾ら以上ない人は受けている公的サービスの方が大きいと幾度となく論われることが、その例でもある。

それらは数値化されて語られてしまえば、もともと貴重で唯一無二のものだったはずが、貴重だという風には思われなくなってしまう。

数値化自体が、最初の前提を壊してしまっているとは、誰も考えない。

気付かない内に、ものの見方を歪められてしまう。



だからこそ本心が問われる。

母親の本心と母親のヴァーチャルフィギュアの言葉。

リアルアバターとして働き依頼者の指示によって操作されるかのように行動する朔也とその本心。

高校のときの同級生や人種差別に遭っているコンビニの店員を助けた朔也とその本心。

クリスマスパーティーに参加したことへの感謝の証として現金を差し出すイフィーとその本心。

それらは問われれば問われるほど曖昧であり、なにが本心なのか分からなくなる。

しかし本心を問うことで、本当の意味や価値の片鱗のようなものには、僅かながらにも触れることが出来る。

そこにある本心がどのようなものか、真実としてどんな言葉になり得て、どんな形をしているか。

それを追求することで、自分の立っている場所を、追認する。



私はこの作品を読み、人の本心に誠実に向き合う姿勢が、なによりもフォーカスされることが、とても大切なもののように思えたが、同時にそれはどうでもよいことのようにも思えた。

人の思考の過程として、本心がどんなものだったか知ろうとすることは、インプットのような働き方をする。

でも、本心がなんだろうが、なにを望み、なにを言うのかが、どうしてもその後の行動になってしまう。

いや、それは、なにを望んでいると心に決めるのかが、かもしれない。

そして、決定だけが、結果を生む。



どんな社会を望んでいるのか。

どんな生き方を望んでいるのか。

私がもし、生産性などと命が軽んじて語ることを問われたとき、言えるのはそれだった。

それ以外のものでなければ、きっとそういった価値観を投げ掛けてくるような人たちには、なにも理解できないような気がしてしまう。

そういう人達は、私の本心を、私が本心だと決めたものであっても、勝手に判断して偽りだとか偽善だとか言ってくるのだからそう。

そういう人達に価値のない人間だと判断されれば、判断された人は社会的にいらない人間になってしまう。

だから私が何を望むのか、私だけが決められる。

”生きていいのか”など、問えないものだ。

そう私は答えることができる。

そのことを忘れてはいけない。



どれだけの人が、望みを言語化しているのだろう。

どれだけの人が、社会に対してなにかを希望しているのだろうか。

この国に暮らす人たちは、自分の望みを口にしないことも多いように思える。

何になりたいか、どう生きたいのか、どんな人になりたいのかは、皆それぞれが持っているはずなのに、それはなかなか口にはされない。

生きたいと思っていても、辛いと言ってしまえば、それをその人の本心だと考える人は無数にいる。

どれだけの人が、自分の本心をそのままの言葉や形で、伝えることが出来るのだろう。

なにが本心かは自分で決めるしかない。

人に決めさせてはいけない。



私が、この小説の感想として、すぐさま纏めておきたかったのは、それだけだ。



しかし、私には、この作品について特に気になっている点が2つある。


一つは、なぜ表紙が少し古風な構図の絵画なのか。

一つは、母親がなぜドローン事故で死んだのか。


前者は、この著者について詳しい人なら知っているだろうが、装丁にも意味を込めることさえあるような人だ、AIやリアルアバターなどが出てくる近未来の話に、一見古典的な絵画を選んだのはなぜなのか、ということだ。

この表紙の作者はゲルハルト・リヒターだという。私は無学なので知らなかったのだが、ナチスのT4作戦の被害者を叔母に持つ画家である。それはいわゆるナチスによる安楽死政策であり、心身障がい者に対しての虐殺行為であった。

その技法はフォトペインティングと言われるらしく、おそらくこの表紙も子を抱く母のような写真をぼかして描く。その技法は記憶の断片を繋ぎ合わせて人物の全体像をAIで構成する、ヴァーチャルフィギュアの印象と被る。

そのリンクが何を意味しているのか。


後者は、言い換えれば、なぜ自由死を母親に選ばせなかったのかで、私はここに著者の本心が隠されているのではないかと思う。

つまり、母に自死を選ばれた朔也を描くということの辛さに、そうしたのではないだろうか、ということだ。


もしそうだとしたら、私は、頷きたい。

私の予想があたっているのなら、私は強く共感したい。

それがどれほどの共感なのかは分からないけれどそうだ。



さて、私は、そういうことを感想として持った。そのことはこれから生きる上でも心に持ち続けて行こうと思っている。


しかし、やはり、本心をそのまま伝えることは難しい。


書くべきこと、書きたいこと、書かなくていいこと、書いたのに書いたような気がしないこと、上手くそのまま伝え切れなかったと、読み返しながら思ってしまった。


願わくば、この感想文が、誰かを攻撃し分断を深めるためのものではないという風に、読まれていることを。

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