『破局』
この言い知れぬ気持ちは何なのだろう。
遠野遥さんの『破局』読了後、私は考えたがどうしてもうまく言葉に出来る気がしなくて、そんな気持ちに適応する言葉を見付けようと、ネットで作品の感想を検索した。
でも誰もこの気持ちを言い表してくれる言葉を残していなかった。
そして私はAmazonの商品ページに行き着くことになった。
これほど人の評価が分かれる小説は珍しいかもしれない。Amazonの評価を見れば分かる通りまさに賛否両論と言っていい。
レイティングスも見事なほど均等に散らばっていて、本日8月15日の午前において32件のレビューがあり、星5つが34%、4つが16%、3つが19%、2つが10%、1つが21%となっている。
そんな評価、私は見たことがないかもしれない。
でもその気持ちは分かる。
『破局』という小説はそれだけ分かり易いが、ある意味においては分かり難く、好みが分かれるものである。
文体は主人公の印象と同じくタフで悩ましいものがない。従順と言ってもいいかもしれない。
しかしテーマは捉えどころのないものである。
その強みは、この作者にしか書けない、ということだろう。
小説なんて多かれ少なかれそういう特性はあるが、このような小説を書こうとし、実際にこんな小説を書けてしまう人は、きっと彼だけだろう。
作者である遠野遥さんは間違いなく、今回の芥川賞受賞、そして評価の割れるレビューが渦巻く中で、ただの新規ファンや新しい読者ではなく、相当コアなファンを獲得したことだろう。
私も、遠野遥さんの小説には、これから注目していきたい。
それだけは確かに思った。
正直に言えば、私が読書前に聞いていた前評判より、私はずっと小説の基調を保っているというか、むしろ小説らしい小説であると思った。
というか前評判があまりに私を怯えさせたようなところはあったかもしれない。
私は遠野遥さんという作者を、この『破局』を読む前においては、こんなことを言っては失礼だとは思うのだけれど、ヤバい奴なんではないかと思い込んでしまっていた。
小説を逸脱した小説であるというような話を、少なくともとても奇抜な小説であるというように、聞いていたからだ。
今の時代、小説でできることのほとんどは、すでに誰かがやっているという人も多い。そんな中で多数の人がそう評価することが、私を怯えさせた。
そしてレビュアーの幾つかの小説からの引用が、怯えさせるには十分なほどに意味不明だった。
例えば、灯という付き合い始めの女性に対する形容として、
——ひとつだけやめて欲しいのは、セックスの最中、私の性器とおしゃべりすることだ。(中略)話しかけられているのは私の性器であって私ではないから、当然私は返事をしない。性器も性器だから返事をしないが、灯は構わずひとりで会話を続ける。——
だとかいう引用を見てしまえば、私は怯えるしかなかった。
ここだけ読めば、かなり狂人染みている。
でも、小説を読んで思ったのは、『破局』という小説がとても緻密であるということだ。
あるいはこれを計算でやっていないのであれば、それはそれでヤバいのかもしれないが、そうは思えない。
とても計算された構造を持っている。
そのはずだ。
私が読んだのは文芸春秋なので、読了後選考委員会の委員の方々の選評を読んだが、私にはこの小説について分からないことはまだまだ多い。
もちろん選評は文字数が限られているので書ける範囲も限られているし、主題である人の中にある規律や規範が暴走し身を滅ぼしていくことについては分かるのだけれど、私が気になったのはそこではなかったとしか言えない。
もちろんそれらの考察も大変参考になった。
というよりメインに紐解くべきはそこだろうし、どちらかと言えばその部分に対する理解の浅さは、多分なほど私にあるということは、よく分かった。
私ははっきり言って、別のことに気を取られ過ぎて、そんなことに頭が回っていなかった。
私が理解できなかったのは『膝』、『灯と話す性器』、『麻衣子を襲った男』、『陽介を止めようとした男』という存在で、私は読んでいる間、疑問符が連続で頭に浮かび、物語の主軸を捉え切れていなかった。
でもなぜか、それこそがこの小説の肝のような気がしてしまったのだから、しょうがない。
止めようのない疑問だったのだ。
本当にこんなことを言うのが適切かどうかわからない。
私はそれらについて突拍子もなくこう思ったのである。
彼らは、『膝』、『灯と話す性器』、『麻衣子を襲った男』、『陽介を止めようとした男』とは、人から離別して生まれた『なにか』なのではないか。
人から別れて存在しているが、もともとはその人と同一の存在で、今は別れそれぞれ独立している別の『なにか』なのではないか。
いや、本当にバカげていると思う。
バカげていて意味不明な考察だと自分でも思うけれど、どうしてもそうとしか思えない。
そうでないとおかしい。
そう思う根拠をここから述べるが、ここからはネタバレも多い。未読の方は注意して欲しい。
私がそう思う理由。
例えば『膝』だ。
『膝』は麻衣子と同じ付属校からの旧知の仲で、陽介と『膝』は知り合って4年になる、陽介と麻衣子は小学校高学年の時に同じクラスになった。
しかし『膝』との関係は陽介より麻衣子の方が長いという記述がある。この記述が間違いでないなら、付属校とは幼稚園だとか、そういうものだろう。
明確な記述は見付けられなかったが、陽介と麻衣子そして『膝』は同じ大学にいるようで、その大学は私立である。陽介の高校は公立らしいので、少なくとも陽介だけは、一貫校だったということではないだろう。
つまり、幼稚園の頃に麻衣子と『膝』は出会い、『膝』は小中高校は陽介や麻衣子とは別のところにいて、あるいは一緒であってもその時期に陽介は『膝』と出会うことはなく、大学で3人は一緒になり『膝』は陽介に知り会った、そして陽介と麻衣子は付き合っている、という線だろう。
あり得なくはない。
でも何かがおかしい。
このくらいの関係性にしては、ストーリーにおいて『膝』は麻衣子に近過ぎる気がしてならないのである。
もちろん『膝』の性格が関係しているかもしれないが、麻衣子は自分の目標のために一日たりとも無駄に出来ないほどとても忙しそうであるのに拘わらず、麻衣子は今も『膝』のことはよく知っている感じである。
『膝』は奇妙な存在だ。
まず名前からして奇妙である。それなのに名前については何も説明がない。
そして言行も奇妙である。スズメとツバメの区別がついていなかったり、麻衣子と話をしているときに突然現れたり、話すことが独特だったりで、強く印象を残しているが、ストーリーの主軸との直接の関係は、あまりない。
しかし『膝』と麻衣子には奇妙な接点があり、それはお互いを補完している。
例えば、麻衣子は付き合っているのに陽介に対してどこか距離の遠い印象を与えるが、『膝』は陽介にむしろべったりでどうでもいい話でもマメに連絡を入れてくる。
例えば、『膝』はお笑いを志している一方、麻衣子は政治家になることが夢だ。何かを目指す一方で二人は全く別の、片や愉快な片や真面目な方向を見て、混ざり合えばバランスが保たれるような生活している。
例えば、麻衣子が自分が子どもの頃に男に襲われた、夢なのか現実なのか分からないような話をしているとき、『膝』は突然現れて現実的な話に方向転換させる。
私には『膝』が麻衣子の分身のような気がしてならない。
それこそ麻衣子の『膝』から生まれ出た怪物のようなものであるという妄想である。
それは幼稚園くらいの頃、麻衣子が『膝』という言葉を覚えたあたりで知り合うことになり、あるとき何かの切欠で麻衣子と『膝』とは別れて存在するようになり、麻衣子は麻衣子で『膝』は『膝』で独立していったような、そんな印象を受けてしまったのである。
本当に、私は私をバカだと思う。
でも、一度そう思うと、そうにしか読めなかった。
この世界では、それが当たり前なのではないか。
それを示唆していると思ったのは、『麻衣子を襲った男』の存在にもある。
麻衣子は小学校低学年の頃、インフルエンザのため学校を休み、一人で家で留守番をし、そして男に襲われる。
物語の終盤で麻衣子はそのときの話を、麻衣子と別れ灯と付き合い始めた陽介にしたがる。
その頃、麻衣子の家にはピアノマンという犬がいて、その犬は家族は出迎えるために見知らぬ人には吠えるために人が訪問すれば玄関に向かうのに、男は犬に警戒されることも認知されることもなく易易と部屋に侵入してくる。
侵入したあとは麻衣子の部屋のベットに横たわり、麻衣子に気付くと襲いかかってくる。
紆余曲折あって麻衣子は男から逃れ、母親にも保護されるというところまで話が進む。
だけど話は終わらなくて、麻衣子は陽介にその続きを話そうと、「やっとお母さんに抱きついた。それからすぐに——」と言葉を繋げる。
そしたら『膝』が突然現れて、「別れたんだって」と言う。
そして会話が中断して、麻衣子は「そう。振られちゃって」と『膝』に返す。
それで『膝』は陽介と麻衣子が、別れたんだって、と訊いたのだと分かる。
麻衣子の話は宙ぶらりんになり、結局最後まで話されないままになる。
でも、もし、と私は思った。
——もし「それからすぐに、別れたんだって」とそのまま言葉が繋がるのが話のオチだったら、話は終わっていたのではないかと。
「別れる」という言葉と「分かれる」という言葉の違いは、個数に関係しているという。
「別れる」は、一つのものが二つに離別することを意味する。「分かれる」は、一つのものが三つ以上に分裂することを意味する。
そして、別れたと言うなら、別離があったということだ。
つまり、おそらく麻衣子、いや麻衣子の母親から、もしくは父親かもしれない、そのとき身体の一部から「別れて」出てきたものが、その『男』なのではないだろうかということだ。
だからピアノマンは、家族でも見知らぬ人でもないという判断をして、彼を放置したのではないか。
麻衣子のベッドに寝たのにも、麻衣子を追いかけたのにも、理由があるのではないか。
そんな想像を私はしていた。
そしてそれを『膝』が語って話が終わった。
『膝』がその話を全て知っているのであれば、『膝』がその場にいたという可能性も、排除できなくなっていく。
何処にいたか?
それは麻衣子の『膝』だったということになる。
『膝』はその後別れ、今は別々になっているのである。
そしてもう一つ、示唆的なものがある。
それは『陽介の性器』と『陽介を止めようとした男』である。
物語中、陽介は麻衣子と別れ、灯と付き合い始める。
灯には妙なところがあって『陽介の性器』と話す。
それは頻繁に話しているようではないが、灯が『陽介の性器』と話しているシーンは確か二度出てくる。
これに意味がないなど、あり得るのであろうか。
灯は陽介と付き合い始め、自分の性欲に支配されるようになる。
自分の性欲が抑え切れなくなりつつあり、陽介だけに拘ってその性欲どうにか抑え付けていたが、そんなときに麻衣子と話した結果として、陽介に対して許せないという思いを抱く。
本心を言えば、灯はその頃には性的欲求の解消ためには陽介でなくてもよい、と思うようになっている。
そして最後には灯は陽介に別れを切り出す。
別れを切り出した灯を追う陽介の前に現れたのが、『陽介を止めようとする男』である。
『男』は鍛え抜かれた陽介に匹敵し得る筋肉を持っているようで、陽介が持つような正義感でもって見知らぬ男女の間に入り、陽介を止めようとする。
しかし、このストーリーも、何かがおかしい。
唐突に出て来たにしては『男』は陽介に似すぎている。
そして陽介も『男』に対して暴力を振るうなど、まるで自分を抑えられなくなってしまう。
私は、なんとなく、こう思った。
灯は『陽介の性器』という、陽介の分身と話していたのではないか。
だから灯は『陽介の性器』とのおしゃべりは成立して、陽介もそれを当たり前のことのように捉えるのではないか。
そして『陽介の性器』は『陽介を止めようとする男』として独立し、陽介の目の前に現れたのではないか。
でなければ必然性に欠けているように感じる。
だから陽介は自律性を失い『陽介を止めようとした男』を攻撃する。
彼は自分の一部を失ったから、自律性を維持できなくなって、自傷行為のような精神状態に陥ってしまう。
そして自失してしまう。
『破局』とは、男女の別れではなく、精神性と肉体性の乖離を意味しているのではないか。
つまり二つの性質の別離、精神が独り歩きしていき、肉体が独り歩きしていく状況を、意味しているのではないかということだ。
現代人特有の、精神性が肉体性を無視して過度に潔癖になったり、倫理観が反倫理に繋がったり、肉体の強靭さが精神に影響を及ぼしたり、性欲を精神から切り離したり、性欲が暴走したり、という傾向を、当人とは別の人格を持つ現象として、そして独立した存在として、描こうとした。
それを表す道具として、ある人の肉体の一部が別れ、独立した人格を作り上げるという現象があり得る世界を描いている。
ゾンビに関する記述が二度も出てくるのも、肉体に宿り勝手に宿主の肉体を動かすなにかの存在を、示そうとしている。
そういうことなのではないかと、そんなことを思った。
また、それ以外にも、この小説には気になるところが幾つかある。
麻衣子と灯にも奇妙なリンクがある。
麻衣子は男に襲われたとき、男が既に部屋に侵入して隠れていると確信して、かくれんぼの鬼のように部屋を探して回り、最後に自分の部屋のベットの上に男の姿を見付ける。
灯は反して、隠れるのが得意だと言う。
かくれんぼサークルなるものに興味を示してそこで見つからなかったと自慢し、部屋に陽介を招き入れたときは突然彼の前からいなくなり、ベットの下に隠れる。
最後に麻衣子は人混みの中で灯を見付けて、灯が陽介のことを許せなくなる切欠となる話を、灯に告げる。
その相対性は注視に値する。
『陽介』、『麻衣子を襲った男』、『陽介を止めようとした男』にも共通点がある。
それは、身体的に鍛え上げているような描写があること、なにかの競技に関わっているような恰好であることである。
そして彼らには暴力という共通項もある。
『陽介』は『陽介を止めようとした男』に、『麻衣子を襲った男』は『麻衣子』に、『陽介を止めようとした』は『陽介』に、身体的にぶつかっていく。
これらは仕掛けられた共通点にしか思えない。
球も妙だ。
陽介が灯と初めて会ったとき、二人はぎんたまというオブジェの前で別れる。
そして二人が物語のラストで別れるときも、男が球を落とす。
それがなんの『たま』であるかという説明はない。『たま』で連想するのは男性器で、直前には陽介が『陽介を止めようとした男』の股間を蹴り上げてもいる。
そして陽介は最後にその『たま』を拾い上げて抱きしめる。そこになんの意味もないとは考えられない。
これらに作為的なものがないのであれば、遠野遥という人はかなりイカレた人ではないかと思う。
しかし意図してやっていないということは、絶対に考えられない。
これらはそんなことが可能なレベルのものではない。
私の考えはもしかしたら完全な的外れなのかもしれない。
正しいかどうかさっぱり分からない。
唯一つだけ言えることがある。
きっとこれから多くの人が、彼の小説を分析することだろう。
この作品はそういう分析をしたがる読者ほど、深く気に入る作品なのではないだろうか。
もしこの感想文を読んで気になる方がいて、なおかつ未読であれば読むことをおすすめしたい。
そしてこの小説の本当の意味を解読したなら、ぜひご教授いただければと思っている次第である。