黒壁に沈む「私」とサンプリング――弘前れんが倉庫美術館「松山智一展 雪月花のとき」レビュー(吉田理紗)
今年は暖冬だと言われたが、2月の弘前は凍てつく寒さである。かつて酒造倉庫だったれんが造りの建物の、温かみを感じるエントランスから展示室に向かう。入り口の自動扉の先には20枚以上のマットが所狭しに敷かれていて、「いらっしゃいませ」、「歓迎光臨」、「Welcome」という文字や、虎やピースサインを象ったマットに過剰なもてなしを受ける。
中に入ると特徴的なシェイプドキャンバスの絵画作品群が目に入る。それらの作品はホワイトキューブに淡々と並べられているのではなく、それぞれ造作された色とりどりの壁面にかけられていて、展示室全体がインスタレーションとして成立している。弘前れんが倉庫美術館の「松山智一展 雪月花のとき」は、フラットで鮮やかな配色の絵画作品が真っ先に想起される松山の「画業」が筆者の中で更新されるような展覧会であった。
「Fictional Landscape」
はじめの展示室には、本展の英題にもなっている「Fictional Landscape」シリーズの絵画作品が並ぶ。本シリーズの特徴のひとつである有機的な曲線から成るシェイプドキャンバスは、日本のやきもののシルエットに着想を得たという。(注1)画面には、雑誌や広告から引用した人物や家具のイメージだけではなく、日本や中国の伝統的な絵画から花や鳥のモチーフなど、多種多様な時代と文化圏のイメージを収めている。
例えば、《両腕に掲げられ、両手を挙げろ》は、サウジアラビアの邸宅をイメージしたCGデザイナーによるデザインや、ファッション誌のモデルのポーズ、七宝焼きの壺などを引用して構成される。(注2)中心にいる男女の衣服は、赤や緑など鮮やかな配色でどれも全面に柄が施されているが、その柄は衣服のしわや向きに沿っておらず、それぞれの輪郭に合わせて切り取りそのまま重ねるように配されている。
さらに展示空間において注目すべきは、造作された壁面にパターンが施されていたり、色とりどりの立体物が所々に置かれていたりすることだ。壁面のパターンは松山自身が集めた壁紙が元になっているという。そして、単色の立体物はどれも松山のアトリエにあった洗剤のスプレーや野球のボールをスキャンし、3Dプリンターで出力したものだ。「Fictional Landscape」シリーズの絵画作品は、雑誌や広告物から元となるモチーフを選んでそれらをトレースし、新たな色やパターンを重ねてゆくプロセスを経て制作される。それを踏まえると、展示室内の立体物がスキャンされてプリンターで出力されるのは、絵画作品の制作におけるモチーフの輪郭をトレースする過程と重なる。さらに造作された壁のカラフルで華やかな壁紙は、輪郭だけ残されたモチーフの上に重ねるための一素材に過ぎない。ふと、自分の影も床に落ちていることに気づき、自分自身も松山の手によって輪郭をトレースされ、レイヤーを重ねられてしまいそうな予感がした。
コールタールの黒壁とステンレス彫刻
次の展示室に進むと「Fictional Landscape」の展示空間で感じた、松山作品に取り込まれてしまう感覚がしだいに強まっていった。そこには松山がキャンバスに描いた作品のうち最も大きな《出会い系サイトで知り合った》をはじめとしたいくつかの絵画作品と、ステンレス製の彫刻作品3点《踊り子》、《紆余曲折を願う》、《ニルヴァーナ・トロピカーナ》が並ぶ。
《紆余曲折を願う》は馬に乗った人の切り絵のような2枚の同じ平面イメージを直角に交わるように組み合わせていて、正面から見ると左右対称の像が見える。その人は中性的な顔立ちで、一見、男性のように見えるものの断定はできない。同じ2枚の平面イメージから構成された《紆余曲折を願う》に対して、《踊り子》と《ニルヴァーナ・トロピカーナ》は様々なイメージが絡み合い、より複雑な構造をもつ。《踊り子》は女性と思しき人物の横顔、手のひらや腕、しなやかな動きをする線といったモチーフを組み合わせている。
《ニルヴァーナ・トロピカーナ》は3点の彫刻のうち最も巨大な作品で、2020年、ニューヨークのロックダウン下でハリケーンによってなぎ倒された街路樹に着想を得たという。街路樹の葉のようにも見える有機的な曲線に囲まれた平面や、仏の手、花や幾何学的な文様を象ったモチーフなど多様な要素から成り、見る角度によってその姿を大きく変える。3作品とも切り絵のように独立した輪郭をもち、特に後の2作品はモチーフによって文様が施されているものもあれば、外形の輪郭以外を持たない「ベタ塗り」状態のものもある。そして、それぞれの作品の周りを一周すると、弘前れんが倉庫美術館の特徴であるコールタールの黒い壁を背景に、自分の像がはっきりと鏡面仕上げの彫刻に映される。3作品はどれも見る角度によって印象は異なるが、作品の表面積に比例して鑑賞者を作品に取り込む引力が強くなってゆく。
これらの作品を見たときに思い起こされたのは近年、松山が手掛けた新宿駅前のパブリックアート《花尾》だ。同作もステンレス製の彫刻で周囲の景色が映り込むようになっているが、黒壁に囲まれた目の前の彫刻群は似たものを感じつつもどこか違う気がした。しばらく眺めて気づいたのは、新宿のそれははるかに巨大で喧騒にまみれた都会の街全体を飲み込むのに対し、本展におけるステンレス彫刻は静かに黒壁に沈む「私」ひとりに狙いを定め、モチーフのひとつとして強引に吸収してしまうということだ。美術館としては珍しい黒壁に囲まれた展示室に設置し、鑑賞者そのものを切り取って作品にペーストする仕掛けがある点で本展のステンレス彫刻は従来のそれとは一線を画す。
そして、同じ空間に並んでいる全長6mの巨大な《出会い系サイトで知り合った》や見上げるほどの位置にある《セイユー・セイミー》などの絵画作品に改めて目を向けると、自分も作品の一部になったことを再認識させられて恐怖さえ覚えるのだ。
空間に展開する
この2つの展示室の後にはカラフルな彫刻作品や、松山作品のモチーフの引用元となっている雑誌や広告の切り抜きやノートの展示、ロックダウン下でスタジオのスタッフに遠隔で指示をして制作した《クラスター2020》、騎馬像のモチーフや「ブロークン・トレイン・ピック・ミー」シリーズの絵画作品などが続く。はじめの2つの展示室を経てこれらの作品を見ると、どれも単なる彫刻作品や絵画作品には見えない。
最後の展示室はいわゆるホワイトキューブであり、淡々と絵画作品が並べられている空間だ。しかし、先の展示室で体験したような作品の強烈な引力の感覚を残してそこに入ると、それらは単に鮮やかで多数のモチーフが描きこまれた絵画ではない。松山の作品は、あらゆる場所や時代から強い力で寄せ集めたモチーフの集積であることを鑑賞者に実感させるのである。そう考えると、展示室入口にあった過剰な量のマットはその力の強さを誇示しているようにも思える。松山の表現は平面に留まることなく、古今東西あらゆる文化圏の事物を吸引して空間に展開する。その方法はどこまでも戦略的かつシステマチックであり、「松山智一展 雪月花のとき」はそれを顕著に表した展覧会であった。
(注1)弘前れんが倉庫美術館「松山智一×ユーストークセッション(「松山智一展:雪月花のとき」関連プログラム)」、https://www.youtube.com/watch?v=V2mnat-r6TA、2024年3月31日最終閲覧
(注2)木村絵理子「松山智一を生んだ時代」、弘前れんが倉庫美術館編『松山智一展 雪月花のとき』、KOTARO NUKAGA、2024年、p180