ムダなもの多すぎてない? (3)持続可能な永久運動/不破静六
前回は、ドロドロの恋愛共依存から抜け出すためには、洒落っ気やケレン味に溢れた「粋」な精神を保つことが必要ということを述べた。
一度のつもりが、二度、三度と深みにハマると、狂信的な思い込みに駆られて悲劇的な結末にもなりかねない。
村の直売所
恋愛に限らず人間関係でも同じようなことが言える。例えば田舎のムラを考えてみるといい。町内活動に上手く馴染めない村人が、周りから迫害されているとの強迫観念に侵され、陰惨な殺戮劇を繰り広げたという話を一度くらいは耳にしたことがあるだろう。
こうしたお互いの顔が見える規模のコミュニティでは人間関係のしがらみはしつこく、特にモノのやり取りで生まれるお返しの義務感は心理的負担も大きい。
そうした重苦しさは、どの地域にもついて回るものだ。しかし、それを地域の「直売所」がうまく軽減するという話がある。
確かに、日々の暮らしの中で生まれる感謝の気持ちや、互いに助け合う文化は素晴らしい。しかし、時にはそれが形式だけの義務的な受け渡しになり、本来の意味を見失ってしまうことがある。
そうしたコミュニテイの中に直売所があることで、無理に物を贈り合わなくても、自分たちの作ったものを共有し合える場となり、その心配を解消してくれるのだ。
年齢による労働シフト
現代日本では定年でリタイアしたあと、喪失感に暮れてわびしい生活をおくる社会人が多い。
しかし、仕事と生活が密着した生業の世界には、年齢に適した作業がちゃんと用意されていた。
老後の理想は隠居だが、経済基盤が弱く普通のイエでは叶いそうもないため、山へ捨てざるを得ない。のっぴきならない状況で、”老人の再生”という神人回帰の離れ業を生み出した。現代社会における種々の矛盾に対しても、このような神秘的なイかれた発想が必要だ。
しかしそこまで極論を言わずとも、それぞれの世代が持つ特性を活かし、互いに支え合うだけでも、共同体全体の豊かさを保つことができる。
年寄りは経験に基づく知恵を、子供は新しい発想をそれぞれが生業に投じることで、バランスの取れた社会を築くことができる。
肥やしが巡る
子どもから、大人、老人と年を重ねるにつれて変化する労働。そして年寄りは人生を全うし、一方で新しい命がコミュニティに生まれる。そうした大きな循環の中に共同体は存在していた。
そうした村を支えるのは百性。彼らの仕事でとくに重要なのは、人糞の使い方だ。
土と作物の健康を守るためには、自然の恵みを利用し、それを最大限に活かす知恵が不可欠である。このような知恵は、理屈だけではなく、長い年月を通じて培われた人々の体験と直感に基づいている。
農業の知恵や共同体の結びつきを通じて、世代を超えた持続可能な生活の仕組みが大切にされている。これは、単に食料を生産するというだけでなく、環境や社会全体のバランスを考えた上で、将来にわたって良好な状態を保持し続けることを意味している。
持続可能な共同体を築くためには、その成り立ちや維持に必要な要素を理解し尊重することが不可欠だ。共同体における人々の結びつきや伝統、地域に根ざした知恵は、その地域を支える根幹であり、これらを無視しては真の持続可能性は成り立たない。
このようにして、共同体の日常や自然との共生を通じて、人間性や直感を大切にすることで、新たな価値を生み出すことができるというのは、現代社会においても非常に重要な指針である。
技術的な進歩や経済的な発展を追求する中で、私たちは時に答えのない問いや直感に耳を傾けることを忘れがちだが、それらを大切にすることで、より豊かな未来を築くことができるのだ。
光の永久運動
光はその特性上、空間を進む際に摩擦とは無縁であり、その潔さと一貫性には自然界の中でも特異な存在であることを示している。この光の永久運動は、我々が持続可能な共同体を目指す上で大きなヒントを与えてくれる。すなわち、技術的な進歩を追求しながらも、無駄を省き、本質に迫ることの重要性を教えてくれるのである。
光の運動ように、我々もまた、世代を超えて蓄積された知恵や結びつきを尊重し続け、新しい技術やアイデアを取り入れながら進むべき道を見失わずに、持続可能な永久未来へと進むべきだ。人間性や直感を重んじ、物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさにも目を向けることが、より豊かな未来の実現につながる。
背負いすぎた荷物をおろして、本質に食込む。それが浮世をサバイブする智慧となる。