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ムダなもの多すぎてない? (3)持続可能な永久運動/不破静六

前回は、ドロドロの恋愛共依存から抜け出すためには、洒落っ気やケレン味に溢れた「粋」な精神を保つことが必要ということを述べた。

一度のつもりが、二度、三度と深みにハマると、狂信的な思い込みに駆られて悲劇的な結末にもなりかねない。

村の直売所

恋愛に限らず人間関係でも同じようなことが言える。例えば田舎のムラを考えてみるといい。町内活動に上手く馴染めない村人が、周りから迫害されているとの強迫観念に侵され、陰惨な殺戮劇を繰り広げたという話を一度くらいは耳にしたことがあるだろう。

こうしたお互いの顔が見える規模のコミュニティでは人間関係のしがらみはしつこく、特にモノのやり取りで生まれるお返しの義務感は心理的負担も大きい。

そうした重苦しさは、どの地域にもついて回るものだ。しかし、それを地域の「直売所」がうまく軽減するという話がある。

この直売所にはもう一つ重要な意味がある。それは「市場」、「匿名性のある交換の場所」としての機能だ。市場社会が圧倒的な力をもつ、都会の暮らしと異なり、この村は、血縁の濃い村である。その中で、余ったものや頂き物を隣近所にお裾分けする慣習はずっと続いてきた。そのような中でこの直売所がもつ意味は、むしろ、匿名性のある、交換の場としての市場機能を担っていることだ。それが、贈与が活発な村の隣近所のつきあいの「重さ」を軽くしてくれる役目を果たしている。下里一区の住人はそのことを次のように話す。
たとえ、捨てるよりはいいからもらってというようなやり取りでも、決してもらいっぱなしにはできないものね……。だって、裏でなんていわれるかわからないからね。
(中略)
村の中の人が知らずに互いの物を買っている場合もある。直売所に置いてある品物は名前がなくてもお互いに誰が作ったかがわかるくらいの関係性だ。それでももらったり、あげたりする贈与よりも気楽でありがたいのが直売所だという。贈与の濃い世界においては、小さな交換の場としての市場が、密度の濃い閉じた社会の重い関係性に風穴を開け、風通しを良くする役目をもっている。下里一区のような「よそ者のいない団結力のある村」にとって、日常的に贈与の慣習が優勢である場合には、直売所は小さな外部として機能する。

折戸えとな『贈与と共生の経済倫理学 ポランニーで読み解く金子美登の実践と「お礼制」』、pp.163-164

確かに、日々の暮らしの中で生まれる感謝の気持ちや、互いに助け合う文化は素晴らしい。しかし、時にはそれが形式だけの義務的な受け渡しになり、本来の意味を見失ってしまうことがある。
そうしたコミュニテイの中に直売所があることで、無理に物を贈り合わなくても、自分たちの作ったものを共有し合える場となり、その心配を解消してくれるのだ。

年齢による労働シフト

現代日本では定年でリタイアしたあと、喪失感に暮れてわびしい生活をおくる社会人が多い。
しかし、仕事と生活が密着した生業の世界には、年齢に適した作業がちゃんと用意されていた。

和歌山県すさみ町の漁師中村虎雄さん(大正5年生まれ)は、①湾内浜、②湾内、③磯は第一線から退いた年寄衆の仕事で、④沖、⑤遠洋は若い衆と壮年の担当であると語る。
また、三重県志摩町の海女のアワビ漁では、(a)フナド=夫婦で行い妻が潜水する、(b)オケド=船頭1人に連れられた海女5~8人が漁場へ潜水する、などは働き盛りの海女が行った。一方で、(c)カチド=磯伝いに歩いて移動しながら随所で潜水漁をする、については第一線をしりぞいた海女や少女が行なったという。(田畑たづさん、大正10年生まれ)
青森県西目屋村のマタギとして活躍した、明治40年生まれの鈴木忠勝さんによると、第一線を退いた老猟師は猿を狩りの対象としたという。当地では猿の毛皮を背皮として利用していた。
そのほか、高知県のアオノリ採取では採取したノリを細かく裂く作業を年寄りが担当したり、福島県の木地職人は原木の切り出しや切り分けなど体力のいる作業を山小屋の若夫婦が行い、老夫婦は里で熟練したロクロ技術で仕上げをしたりしていた。農作物についても、重い作物から軽量のものへ移行するなどがある。

野本寛一「老熟者の座標ー民俗社会の伝統の中で」、
宮田登ほか編『老熟の力ー豊かな<老い>を求めて』、pp.23-25

さまざまな生業の中で、老熟者が重労働から軽労働へ、体力のいる仕事から体力を使わずに熟練度を生かす仕事へ、そして、時には生業の主役から脇役へ、さらに補助役へと移行する例は多い。それは、生業の個性、地域の特色をふまえながら、イエやムラの中で慣行的に展開されるのが一般的だった

同上

老後の理想は隠居だが、経済基盤が弱く普通のイエでは叶いそうもないため、山へ捨てざるを得ない。のっぴきならない状況で、”老人の再生”という神人回帰の離れ業を生み出した。現代社会における種々の矛盾に対しても、このような神秘的なイかれた発想が必要だ。

しかしそこまで極論を言わずとも、それぞれの世代が持つ特性を活かし、互いに支え合うだけでも、共同体全体の豊かさを保つことができる。
年寄りは経験に基づく知恵を、子供は新しい発想をそれぞれが生業に投じることで、バランスの取れた社会を築くことができる。

肥やしが巡る

子どもから、大人、老人と年を重ねるにつれて変化する労働。そして年寄りは人生を全うし、一方で新しい命がコミュニティに生まれる。そうした大きな循環の中に共同体は存在していた。

そうした村を支えるのは百性。彼らの仕事でとくに重要なのは、人糞の使い方だ。

日本の農民は、さらに肥料のやり方を工夫して反当たりの収量の増加に努めてきた。例えば、元禄時代の農学者・宮崎安貞は、『農業全書』第一巻で「糞(こえ)」について一章を割き、肥料の配合を薬の調合に譬えている。
「まことにコヤシを用いる法は、医術によく似たり」「田家に糞薬」と言うべきであって、やせた土地、食べ過ぎの土地、冷え性や熱っぽい土地に、さまざまな肥えを使い分けて、シップをしたり下痢止めをしたり逆に下剤を飲ませたりしなければならない、と説明する。
(中略)
このようにして、「コヤシを多く集め置き、作物に応じ土地に応じ配分や季節を考えながらよろしく用いれば」大収穫は間違いない。
(中略)
「この技を極めて卑しめ軽しめる人もいる」が、この糞壌を調合することは、農業のうち最も肝要であり「天地の化を助ける」ことであるとさえ、彼は力を込めて説いている

有田正光、石村多門『ウンコに学べ!』、pp.63-64

土と作物の健康を守るためには、自然の恵みを利用し、それを最大限に活かす知恵が不可欠である。このような知恵は、理屈だけではなく、長い年月を通じて培われた人々の体験と直感に基づいている。

農業の知恵や共同体の結びつきを通じて、世代を超えた持続可能な生活の仕組みが大切にされている。これは、単に食料を生産するというだけでなく、環境や社会全体のバランスを考えた上で、将来にわたって良好な状態を保持し続けることを意味している。

持続可能な共同体を築くためには、その成り立ちや維持に必要な要素を理解し尊重することが不可欠だ。共同体における人々の結びつきや伝統、地域に根ざした知恵は、その地域を支える根幹であり、これらを無視しては真の持続可能性は成り立たない。

このようにして、共同体の日常や自然との共生を通じて、人間性や直感を大切にすることで、新たな価値を生み出すことができるというのは、現代社会においても非常に重要な指針である。

技術的な進歩や経済的な発展を追求する中で、私たちは時に答えのない問いや直感に耳を傾けることを忘れがちだが、それらを大切にすることで、より豊かな未来を築くことができるのだ。

光の永久運動

光は何かと衝突しないかぎり、宇宙を一定方向に進み続けます。真空や絶縁物の中でも、電場と磁場が互いに刺激しあって波動となり、伝わっていきます。また、光は摩擦熱を放出してエネルギーを無駄にすることが一切ないので、永遠に動けます。
光こそは、宇宙で唯一の永久機関なのです。

三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』、p.138

光はその特性上、空間を進む際に摩擦とは無縁であり、その潔さと一貫性には自然界の中でも特異な存在であることを示している。この光の永久運動は、我々が持続可能な共同体を目指す上で大きなヒントを与えてくれる。すなわち、技術的な進歩を追求しながらも、無駄を省き、本質に迫ることの重要性を教えてくれるのである。

光の運動ように、我々もまた、世代を超えて蓄積された知恵や結びつきを尊重し続け、新しい技術やアイデアを取り入れながら進むべき道を見失わずに、持続可能な永久未来へと進むべきだ。人間性や直感を重んじ、物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさにも目を向けることが、より豊かな未来の実現につながる。

背負いすぎた荷物をおろして、本質に食込む。それが浮世をサバイブする智慧となる。


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