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きらきらしきゆえん

 梅雨入り直前のわりと晴れた日、外海そとめに行くことがあった。あんまりゆっくりはできなかったけれど、せっかく行くのだからとカメラを持っていき、せっかく持ってきたのだからと何枚か写真を撮った。

 草木の茂るハイシーズン。教会の信徒会館の窓の外を見ると、ほとんど緑色で埋めつくされていた。

ド・ロ様の小径と井戸

 この日もお借りしているカメラNikon D7500に、レンズはSIGMA18-300mm F3.5-6.3 DC MACRO OS HSM | Contemporaryをつけてきた。

 このへんは景色がいい。海と山があって、道が混むこともない。角力灘すもうなだに沈む夕陽は絶景などといわれる。
 インターネットなんかでこのあたりのことを調べたとすると、信仰のまちだとか、キリシタンの聖地だとか、そういう言葉がおどる。五島だったら信仰の島、とかね。
 そして、外海や五島といった田舎町、過疎地に暮らす人たちを、そういうものとむすびつけて、純粋で素朴さにみちみちてるみたいに扱ったりする。

 外海からの帰り道、車をブーンと走らせていて、急にそんなことに腹が立ってきた。この土地はたしかにうつくしい。でもそれは、キリスト教の信仰のこととも、ここに暮らす人たちの人間性にも、かかわりなく、うつくしいんだ、とおもう。

 そういう勝手なイメージをばらまいて、そしてそういうイメージをまともに受け取ってしまった人々が、ここを訪れるのを見るといらいらする。この土地にだって見苦しいものはあるし、ここに暮らす人のなかにも心の清くない人がいる。それは別に、誰かや何かに原因や責任があるわけでなく、ただあたりまえにそうなっているだけなのだ。ここに「非日常」があるわけでなく、ごくあたりまえの日常があるだけである。色んな人が、色んな人間性を持って生きている、現実があるだけである。

 この土地がうつくしいということに何か理由があるとすれば、そのごくふつうの集積が、現実に営まれているからだとおもう。

 わが県は、「訪れる人に感動を」なんて背筋がひえびえしてくるような言葉をキャッチコピーにしているけれど、感動はよそからやってくるものというよりも、自分の内側と何かとの化学反応みたいなものだ。ここを訪れたら何か、感動を与えてくれるものがあるんだ、などとおもって来られたらたまったものじゃない。

 と、ひとりで勝手にぷりぷりしながら帰ってきた。

 私はこの土地が好きだ。

*

 通り道には湿地公園がある。ふと目をやると蓮の花が咲いていたから、車を停めて急いで撮った(ちょっと急いでいたから)。

 蓮の花がひらくときには「ポン」と音がするというけれど、早朝に蓮園とかに行ったことがないから、その音を聞いたことはない。

 このきれいな蓮の花にしても、泥の中から咲かせているのだもんね。

桃みたい

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片山 緑紗(かたやま つかさ)
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