実感を得るためのあなごめし
毎度のことながら、『対人関係の中から自分を発見する病』による考察(?)について書いていくことになりますが、ご了承ください。
新行内紀子さんのページには、フランス関連の記事に惹かれて通うようになった。彼女の興味の対象や話題は私にとって新鮮に感じるところも多く、おかげで知らない世界をのぞいているみたいな気分にもなれるところが好きだ。先日の新行内さんのこの記事に、なんだかおもうところがあった。
私は子どものころから芸能人に憧れるとか、アイドルにはまるといった経験がなかった。好みのタイプみたいなものも、いまだによくわからないし、まわりの多くの『カッコイイ』『すてき』と私のそれは、あまり一致しないことも多いようにおもう。だからというか基本的にアイドルなどのブラウン管(じゃないけど)のむこうの世界に対しての憧れが薄く、このPVも新行内さんが記事にしてなければ間違いなく観ない類のものだ。でもなんだか観たほうがいいような気がして観にいった。彼らの容姿、ダンス、歌声とさまざまな効果で彩られた映像は、とても美しかった。美しいと感じる一方で、(彼らに限らず)心を奪われ熱中するというところまでを体験したことがない。
(どうして私の中にはそんなふうな憧れがないのかな?)
ひとつこたえとしては、たぶん私は何に対しても実感が欲しいのだろうなということ。大好きな憧れの存在といったって、ステージの上やテレビの向こうというのはあまりにも遠すぎる。
行きたい場所を写真で見たり、バーチャルなんかで体験することができる世の中になったといっても、私はその場所の空気が吸いたいし、その土地に自分の足で立ちたいし、そこにあるものに自分の手で触れてみたい。誰かがおいしくないよと言っても食べてみないと気が済まないし、おもしろくないと言われた本や映画なんかも興味が湧けば手に取りたい。つまり自分の身体や感覚を使って確かめたいというおもいが強いみたいだ。
ひとつ言っておきたいのだけれど、憧れの存在を持つ人たちを否定しているとか批判するとかそういうことではぜんぜんない(むしろ羨ましささえある)。
たぶん私は境界線を飛び越えるのに時間がかかるんだろうな。だから、物理的な距離というか、次元をパッと飛び越えてしまう人たちを目の当たりにすると、羨ましく感じるんだろうな。
*
先々週の旅の始まりは、出雲だった。この地に立つのは2回目だけれど、時間帯も季節も違うし、前回はひとりで今回は友人らといっしょだったというのもあって、印象はまったく違った。
早朝、極寒の稲佐の浜から海を見ると、蒸気霧がたっていた。蒸気霧というのは、空気と海水の温度差によるもので、五島の方なんかでも見られるというのは聞いていたけれど、自分の目で見たのは初めてだった。私がそこにいる実感が得られるというのは、つまりこういうことだった。その瞬間しか出会えないものたち。こういうことには時間もかかるしお金もかかるしエネルギーだって必要なんだけれど、この実感というのは大きい。つくづく私は、何をするにしても不器用だなとおもう。
蒸気霧の立つ海/稲佐の浜
それとあと気になるのは、その実感の積み重ねから、自分がこの世界に何を、どんなかたちで還元できるのだろうということだ。時間とお金とエネルギーをかけて得たそれらを、私はどういうふうにして示すことができるのだろうか。何かの役に立てるだろうか。
お金の使い方にしてもそうなんだけれど、自分が「何に」お金(エネルギー)を使っているのかは知っておきたい。たんなる消費や浪費なのか、欲求か、欲求だとした場合それがどんな欲求なのか。できればストレス発散みたいなことばかりには使いたくない。私が支払ったものとその私とは、つり合いがとれているだろうか。日々使うものや身につけるモノもそうだし、旅や学びみたいに体験するものごとと自分との間に、価値が認められるかどうか。対価の先にある目に見えないところにまで想像が及ぶかどうかも、気になっているところである。
*
先にあるもの。
冒頭の新行内さんの記事で言うと、それは例えばこのグループやプロダクションの発展のためとか、グループの存在や影響によって満たされる人たち、そのひとり一人の人生が輝く可能性のようなものを少し想像してみると、私みたいなものでも再生ボタンを押す価値があるんじゃないか、なんてことをおもうのだった。
すてきな機会と、記事へのリンク許可をありがとうございます。
↓この記事の動画も観にいきました。他ジャンルの記事もおすすめです。
*
トップ画像は宮島で食べたあなごめし。地元民は食べないなんて言われたって、自分でこの土地で食べてみたいのだ!(ちょっと身が硬かったけど)