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証しすることについて語るときに・・・

 昨年、島原半島の墓碑巡りをしたころに、これを読むといいよと1冊の本を手渡してもらうことがあった。大判でとても中身のぎっしりとした本であることもあって、まだ途中である。

 その本は、キリシタン墓碑、とくにその墓碑に刻まれたシンボルや戒名などから、隠された意味合いを読み解いた数々の発表というふうなものである。なぜ隠さねばならなかったかというと、それらの墓碑が建てられたのが禁教期という時代にあったからで、表に知れれば近親者たちの身があぶないなどといったいくつもの厄介があるからというのが主な理由と言える。
 筆者の方は自分の脚を使って各地をめぐり、多くの文献をあたって調べ、考察や想像を重ねたのだろうな、というのがひしひしと伝わってくる本である。

 かくれキリシタンであるというのを示すもののひとつに、三位一体のシンボルがある。これは、みなさんご存じの神の3つの位格(父と子と精霊)を表しており、それはほとんど常に3という数字をともなっている。古くは正三角形やその三角形2つを上下逆さまに重ねた六芒星、あるいは3つの輪でもって表してあったりするという(まだ他にもあるけど)。
 我が父方の家紋は三ツ輪である。ふうん、とおもった。
 どうでもいいことを書いた。

 この本では主に九州地方の、当時布教が盛んだった地域及びその周辺を中心として調査・執筆されているのだけれど、1年とちょっと前に訪ねた宮崎県飫肥地区や、日南などといった土地にもかくれキリシタンのものとおもわれる墓碑がけっこう残っているらしく、いつかまた訪ねることがあれば見てみたい気もちになった。

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 ところで、あかしとはいったいなんであろうか。
 この本のタイトルにも使われているし、いまの仕事をしていると、情報系のウェブサイトであったり旅行用パンフレットであったり、それこそ書籍などのタイトルといったあらゆるところ「証」という言葉が踊っているのを目にするので気になっていつつも放ったらかしにしておいた。
 キリスト教における「証」とは、神様から頂いた恵みを人に伝えることを指し、「証をする」などと言うのらしい。イエス・キリストを信じた者には、その心を様々な人に伝えたいとために実践するものとしての「証」もあるのだという。福音宣教というわけである。

 キリスト教における証しがそういう意味合いを持つものであれば、墓碑などに隠しの図像や戒名を駆使して刻み込むことはなるほど福音宣教としての一面と理解できる。神はすべてを見通されるのであるから、何も石に刻み込むなどしなくてもいいはずであるけれど、目に見える事柄として残すのはやはり人に向けてのものというわけで、つまり誰かに何か伝えたいことがあったのであろう。この本によると、祖先の墓碑を刻みなおしたかくれ墓碑なども見受けられるそうなので、その「証」が伝わったケースもあるのかもしれない。
 それとは違い、観光誘致などといった目的のために使われる「証」はどこか胡散臭い。全部がそうであるなどと偉そうなことは言われないけれど(言ってるかな)、そういう使い方をしていたのでは言葉のもつ意味合いは変わってしまうことになり、言葉というのはそれ自体確かなものではないとは言え、あまりに安易なのもどうかとおもう。
 まあ、私の声などというのはとても小さいのであるから、このようなところでぶつぶつ言っても栓のないことなのかもしれないけれど。

 トップ画像は2020年2月の終りに訪ねた久賀島で撮った、五輪地区のもの。今回とりあげた本というのは、天草の方が自費出版されたもので発行は1997年10月とある。

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今日の「想定外」:雨は夜からの予報だったし傘は持たずにぺたんこかつペラペラの靴で出かけたところ、午後には降り出しました。傘は事務所に置いてあるのがあったけれど、おかげで靴下まで少し雨水が浸みました。しくしく。

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片山 緑紗(かたやま つかさ)
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