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キリシタン墓碑についてのちょっとした記録・その一(訂正あり)

 先週のこと。自分の仕事ではなかったのだけれど、頼まれた案件で南島原方面から島原半島をぐるっと北東に向かってまわってきました。あまり興味と知識のない分野だったのですが、せっかくだし記録のためにちょこっと調べて、残しておきたいとおもいます。
 目的は何かというと、島原半島それも大部分が南島原市に分布する、キリシタン墓碑群の場所やルートの確認であります。この間の外海そとめ地方の墓地探索といい、墓地的な縁(?)が続いています。

 はじめに断っておきますと、記事が長めです。そしてこれは墓碑のある場所をめぐり、資料をもとに「キリシタン墓碑群」についてのいくつかの記録とともに私的な(どうでもいいかもしれない)感想なんかを交えた記事です。
 資料は『南島原市世界遺産地域調査報告書:日本キリシタン墓碑総覧-企画 南島原市教育委員会/編集 大石一久-』という、物々しい総覧を用いて参考にさせてもらっています。
 そういうわけで、墓碑をめぐるちょっとしたツアーにお付き合いください。

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・須崎キリシタン墓碑群(南島原市加津佐かづさ町)
最初の目的地がもう遠かった。事前にいちおうルートを作成したし、標識も立っていたんだけれど場所を特定するのがちょっと手間取った。なにせ準備期間がすごく短かったのです(いいわけ)。
墓地の片側は小さな船の係留してある河口に面していて、反対側には民家が並んでいる。河口のちょっとしたスペースに勝手に車を停め、墓地に入った。墓地は、現代墓がほとんどで、その中にこれらの墓碑がひそっと存在していた。
資料には、写真にあるような鉄蓋はつけられていなかった(この総覧は平成24年の刊行で、調査期間については該当箇所を見つけられてない。見つけたら書きます)。

車庫入れ風(須崎キリシタン墓碑群)

蓋をされた小口面には墓碑銘が彫られている。鉄蓋は保護のため? この、カーポートみたいな雨除けもだけど、文化財だからと言ってちょっと・・・って感じである。石材は天草の砂岩。

カルワリオ十字の陽刻(須崎キリシタン墓碑群)

こちらはカルワリオ・ラテン十字が彫出した横に幅広のもので、形状として珍しいため資料によると特殊形の墓碑とされていたが、調査を進めたところ祭壇用の基壇かそれに類する用途のために製作されたと思われるとのこと。陰刻ではなく陽刻されたもので、花十字紋を除く陽刻十字紋は他に大分県のクルス碑のみに見られ、ともに礼拝用と考えられているそう。須崎墓地の基数は計6基。

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有明海が広がっている(原城跡)

・原城跡キリシタン墓碑群(南島原市南有馬町)
原城跡に認められるキリシタン墓碑は3基とある。今回はぐるりと車で走っただけで、写真を撮ってないので2019年12月の訪問時の写真をひっぱり出してきた。おそらくこれが墓碑(のひとつ)。と、書いて公開していたけれど違っているとのご指摘をいただきました。この写真は天草四郎時貞の墓碑であるそうです。この墓碑に並んで、3基のキリシタン墓碑(伏碑)があります。というわけで、お詫びいたします。
海のむこうに談合島が望める、原城本丸跡の一角にある。3基すべて無銘の墓碑で、他所から移されたもの。その、他所というのは北有馬町の西正寺で、原城跡から5kmほど北にある寺で、その西正寺からさらに2.5kmほど北に行くと別のキリシタン墓碑群がある。西正寺には今回未訪問。

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・中須川キリシタン墓碑群(南島原市有家ありえ町)
実はこれは間違って立ち寄った場所で、ほんとうは「須川キリシタン墓碑群」が目的地だった。どうして間違えたのかというとリサーチ不足と名称が似ていたからである(いいわけ)。て、いうかさらに言い訳させていただくと、参考にした資料はいわば研究資料であって、なので標識などに用いられる、行政がつけた名称と一致しないものがけっこうあったというわけ。
この中須川キリシタン墓碑群は、国道251号沿いにあるため見つけやすい。4基あり、そのうちの1基は明治35年に森豊造氏という人に公表されたのを発端とし、長崎県下におけるキリシタン墓碑発見のきっかけとなった記念すべき(?)墓碑であるという。

花十字紋(中須川キリシタン墓碑群)

車を運転していても目視できるほどの実にしっかりした「史跡セミナリヨ跡」という白い看板が立っているけれど、この地点に確かにセミナリヨがあったとは特定できていないらしい。ちょっと紛らわしいね。
花十字紋がくっきりと彫られた写真の墓碑が、上述の発端となったキリシタン墓碑であるとのこと。
行くはずであった「須川キリシタン墓碑群」のほうには、国の指定を受けたキリシタン墓碑がある。天草の砂岩でつくられた半円柱の伏碑で、小口にはそれぞれ花十字紋と4行のローマ字銘文が刻まれている。

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・里坊キリシタン墓碑群(南島原市西有家町)
ここにはたどり着けなかった。Googleマップを見ながら車を回していたら、引き返せなくなりそうなところまで進んでしまい、これはいかんとおもってじりじり後ずさりして車を停め(公民館を借りた)歩き回ったんだけれど、だめだった。マップは、丘のむこうを指していたし、案内板みたいなものもまったくなかった。先があるからあきらめた。
それで、戻ってもう一度資料や地図を確認してみたところ、川を隔てて反対側をうろうろしていたみたいだった。私が入っていった道よりも手前の通りから入るルートが正しかったみたいだけれど、それにしても案内板は見当たらなかった。あるいはただの見落としかもしれないけれど。
この場所には5基の伏碑があり、他の場所のようにその時代の石塔や墓地遺構などは認められず、また現代に至る墓地が周辺にあるわけでもないことから、非常に個人的な「イエ」にかかわる墓碑群であったかもしれない、と資料にある。5基すべてが無銘で、1基のみ方郭カルワリオ罪標十字架が陰刻で彫られている。

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カルワリオ花十字紋(有家キリシタン史跡公園)

・有家キリシタン史跡公園(南島原市有家町)
ここは史跡公園だけあって、案内板はたくさんあったし、マップもきっちり案内してくれた。この近くには温泉うんぜん山四面宮の有家温泉うんぜん神社があり、以前記事にした四面宮との関わりを持つため、気になったけれどもまあ今回はなんといってもキリシタン墓碑である。諦めるしかない。
いくつかの集落に点在していた墓碑を合祀する格好で史跡公園となっているため、墓碑数は多く20基となっている。
写真を載せている墓碑に刻まれているのはカルワリオから伸びた花十字紋で、これは非常に珍しいと資料にある。他に花十字紋をもつ墓碑や、三角形のカルワリオのものもあって、これらも珍しいそう。下に写真を載せるけれど見づらいし「三角形」のあたりの説明が難しい。
カルワリオ花十字紋の墓碑は、発見当時(昭和2年)は畑の石垣に転用されていたとのこと。ここの墓碑群の墓碑はほとんどが無銘であった。
史跡公園からさらに奥に向けて矢印つきの看板があり、それには「有家石人・妙香古墳」と書いてある。古墳・・・とおもって気になったので行ってみたけれど、そこで見つかった古墳らしき蓋石の上にあったという、お猿に似た石が薄暗い場所に置かれていて、ふーんとおもった。

三角形を持つカルワリオ十字紋(有家キリシタン史跡公園)

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 まだ続くんですけれど、きっと退屈しちゃうとおもうので記事を分けることにしました。こういう機会を得ることもまあ滅多にないだろうから記事にはしておきたいし、(あまりいないかもしれないけれど)興味を持つ方もおられるかもしれないし。
 これは私の仕事ではなく、他人の(ってボスだけど)を手伝ってあげたものでした(えらそう)。冒頭に書いたように準備期間が少なかったため、いっぱい手落ちがあったのが悔しい。自分の仕事ではないとはいえ、何か行動するときに慎重にすべき準備などについて学んだ、いい体験となった。かといってもう一度行く必要もなければ、プライベートで行くこともないだろうということで、せめて記事にしておいて残しておこうとおもったわけ。

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・意匠について
ここに出てくるキリシタン意匠については、「花十字紋」「罪標十字架(干十字架・二支十字架)」「洗礼名(漢字・平仮名・ローマ字)」「ローマ字による人名表記」「IHS」「INRI」「西暦」「祝日」に限定するとし、またとくに単なる十字を刻んだ墓碑については、形態上明らかにキリシタン墓碑と認定できる墓碑(主に伏碑)に刻まれた十字紋(ギリシア十字・ラテン十字)を除き、その認定が困難であるためここでは除外する、と資料に書いてある。
何度か出てくる「カルワリオ」というのはカルワリオの丘(ゴルゴタ)を象徴する意匠のことだとおもわれる。十字の下部にこんもりとした部分が認められる。

・名称・語句
罪標十字架とは、主に九州地方で「干十字」、関西地方で「二支十字」と呼ばれている十字架紋に用いる。二本の横木の中で上部の横木は、本来「INRI(ユダヤの王、ナザレのイエスの頭文字)」の罪標を表していることからつけた名称とある。資料を見ながら見慣れない言葉だったため書き添えました。

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今日の「中間報告(2)」:もう誰も気になんかしていないかもしれないけれど、千夜一夜物語はいま第三百五十三夜を超えました。

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片山 緑紗(かたやま つかさ)
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