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あらためて京都

 最近、ちょっとした必要から京都・八坂神社の祭礼、祇園祭まわりのことを調べていた。祭りというものを好まないために、祇園祭は神輿の祭りだけれども山鉾が人気とかそういうことも知らなかった。祇園祭・山鉾といってうかんだのは、MASTER KEATON「祈りのタペストリー(10巻のCHAPTER7)」に祇園祭が取り上げられていたのと、妹尾河童さんのエッセイで見た彼による緻密なイラストだった(長刀鉾を描いておられた)。

 京都・八坂神社における祇園祭のもととなっているのは、御霊信仰ごりょうしんこうというもので、これはだいたい平安期に生じたものとされている。八坂神社はもと祇園社といった(寺院部分は祇園感神院)。明治の神仏分離で社名が改められ八坂神社となった。創祠は666年とも、876年ともいわれ、そのあたりははっきりしない。祇園感神院は奈良興福寺の末寺を経て比叡山延暦寺の傘下に入り、延暦寺鎮守である日吉社の末社と位置付けられた。祭礼はこのころ始まったとされている。

 御霊信仰とは何かというと、古代日本において、人知を超えた災厄などを亡魂のたたりと考え、その霊威を恐れるがゆえに生じた鎮魂にはじまったと考えられている。さらに、平安京という都市における人口増加などの結果疫病の流行が生じてからは、疫病は異国からやってきた疫神のしわざと考えられ、それらを鎮めるための御霊会ごりょうえが行われるようになった。

 亡魂を鎮めるという行為から発した御霊会は、次第にその対象を変化させた。一つには鎮魂に加え亡魂に強力な霊威を付加しそれを崇めることであり、また異国の疫神を神として崇敬した。こうした御霊の対象の変化はさらにその強い霊威によって信仰する人びとに加護を与えるという考え方が加わり、京都におけるさまざまな祭りに影響を与えていくこととなった。

 現在の八坂神社の祭神はスサノオノミコト、クシナダヒメ、ヤハシラノミコであるけれど、平安期には牛頭天王ごずてんのうという疫神が祀られていた。牛頭天王は天竺(インド)の神であるのに、古い伝承のなかの説話をみるとそのなかで「私は速須佐雄はやすさのお神である」と名乗ったという。牛頭天王は疫病をもたらすとともに自身を信仰するものには加護を与えるという二面性をもっている。

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 私は以前から神仏習合というものに親しみを感じられないでいるのだけれど、古代からこうした考え方は浸透していて、日本の歴史のうえでは重要だった点をおもうと、アレルギーが出そうになるのをぐっとこらえるしかない。こらえつつ、ふとおもったことを書いてみる。

 このような(だいぶはしょったけど)御霊信仰の発生過程で行われたような価値転換という、解釈の余地を含んだ矛盾の調整法と、日本という国の体質が深く結びついているようにおもった。

 わかりやすいものとしては、明治維新後に目指された民主主義的国家形成の試みで、これは結果として多くの矛盾を含み、西洋でいうところの民主主義にはなりえなかった。日本では多くの面で物事や責任の所在があいまいにされ、帳尻の合わないものも多く存在し続けているが、こうした行動原理が御霊信仰変遷のなかに見えたような気がしているのである。

 これは日本が抱える課題の一つであり、一神教を背景に持つ西洋文化と大きく異なるところとおもうのであるが、容易な比較や成否判断ができる問題ではないし、そこまで書くエネルギーが今はない。

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 京都、ということで以前の写真を引っ張り出してみた。2021年4月、このときは友人たちといっしょに鴨川沿いの宿に泊まり、稲荷山の登拝をしたり(膝がふるえた)、三輪山に振られたり(疫病蔓延で閉じられてしまった)、いづうの鯖寿司をたべたり(おいしかった)、そんな2泊を過ごし、最後の1泊はひとりでぶらぶら観光をしたのだったな。

 賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ本殿での特別参拝(500円)をうけたり、東寺を一周したりした。三輪山に行けなかったから、いつか行けるといいなとちょっとだけおもっている。

賀茂別雷神社境内
東寺 五重塔

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片山 緑紗(かたやま つかさ)
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