松浦家の家紋は三つ星だと知った
仕事の用があって平戸市に行ってきた。平戸大橋より手前には田平教会があって、ここにも寄った。1年半ぶりくらいだった。
田平教会のあるエリアは、もとは世界文化遺産『長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産のひとつだったけれど、いろいろあって外れてしまった。そうはいっても、多くの人の興味を集める教会堂である。当初からの登録に向けた準備からの縁で、その後も仕事でも個人的にも8年ほどやりとりが続いている。
田平は外海の出津と関係がふかく、それというのはド・ロ神父のいくつもの社会福祉活動のひとつである移住開拓事業によっている。黒崎村出津(現長崎市出津)のあたりは、土地がやせていることもあって田畑が充分ではなかった。将来子どもたちが生計を立てていけないと見たド・ロ神父は、明治19(1886)年に田平の横立に山野一町歩三畝余りの山林、雑種地を購入し、翌明治20年6月に4家族25名を移住開拓させた。
その後も、紐差村赤松崎の他南田平村下寺、江里山、南田平村小手田瀬戸山と合計六町六段三畝散歩の土地に19家族93名を移住させた。
ここからの話、知らなかったのだけどド・ロ神父はさらなる開拓移住地を求め、北海道の当別、湯川、函館、室蘭、札幌地方へ調査員を派遣、その結果30世帯の集団移民を送る予定を立てたものの、あまりの遠さに村人たちが怖気づきこれを見合わせた。
次に鹿児島、福山、野尻、紙屋、コメカミの原、都城、小林、高原、宮崎市外、広瀬、高鍋にも調査員を送り、その報告を受けて自身もフェリエ神父とともに鹿児島の霧島山麓から飯野、小林、高原、都城などを視察し戻ったが、ここでも遠すぎるというので移住する者がいなかった。
ド・ロ神父は、今後増えるだろう人口に対し狭くなる一方の土地と、いずれ地価があがるだろうこと、そうなると移住も困難になるだろうに、と消極的な村人たちの態度を嘆いたらしい。
結局成功したのは冒頭の田平と紐差の二か所にとどまった。
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明治19年の田平・横立への移住4家族のうち1件の子孫の方(I・Kさん)と知り合いになった。初めはやはり仕事上のやりとりだったのだけれど、今はI・Kさんは家業に戻っているから時たま連絡をとるくらいになっている。
ご自身のルーツのこともあって、I・Kさんは出津から田平に移住してきた一連の流れを彼なりに大切にしているようだ。外海のTKさんほど頻繁に会えるわけではないが、ときどき話をしたり時間を過ごしてきてそう感じる。I・Kさんの人生の一断片に触れる中で、私は何度かはっとさせられることがあった。
今回、急に平戸に行くことになったからどうだろうとおもいつつ電話をかけると、仕事があるけれどお昼くらいなら一緒にできる、というので1時間ほど会うことができた。ちょっと痩せたようだけれど、元気そうで安心した。お互いの近況を話す中、ふとしたことからI・Kさんが発した言葉にまたぎくっとした。それはやはりそのルーツに関わる、ド・ロ神父や出津という土地とのつながりにおいての、I・Kさんなりのものの考え方にだった。
やりとりの詳細をここに書きたいような、だけどI・Kさんが大切にしているそれをむやみに口にしたくないような、そんな気分もあって書かないことをお許し願いたい。
とにかく出津や田平の人たちと接していると、たまに明治という、もう遠くなってしまったはずの自分が知らない時代とそこに生きた人たちが、まるでほんの少し前の出来事だという感覚でいる人が多いような印象を受ける。そういうとき、なんとなく私の心が揺さぶられる。
I・Kさんはどちらかというと無口で、表情もかたいほうだけれど、根がすごくやわらかいという人柄をもっている。あまり多く喋らないぶん余計に、印象に残る言葉が多い。
信仰に篤く熱心で、そのため未信者に極端にきびしいような人もときどきいるけれど、そういう人たちともどこか違う。何かI・Kさんなりの思いがあってのことだろう、そばにいると安心する。常日ごろ、私は清く正しい人とか立派な人間というのは存在しないとおもっている。人の魅力というのはちょっとやそっとじゃ見られない、暗部にあるというのが私の意見である。清く正しく立派な人というのもあるいはいるのかもしれないけれど、裏で誰かが泣いているような気がしてならない。
ド・ロ神父が購入した土地も、もう半分ほどになっているという。I・Kさんの口ぶりからは、なくなっていくのをただ惜しむというより、いま自分ができることをただ黙ってやるのだという感じがした。
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田平から平戸大橋を通って、平戸島に渡る。ここでもちょっと仕事があって、だけどすぐに終ってちょっとした時間を「松浦資料博物館」にあててみた。特に心躍るような展示には出合えなかったが(個人的な意見です)、遠くに見える平戸城を眺めたりした。
松浦家には詳しくないが、家紋が三つ星なのが気になった。渡辺星に似ていたからだ。と、おもって調べたらやっぱり渡辺綱を祖としているらしい。渡辺氏の紋は三つ星に一文字(渡辺星)で、松浦氏は一文字のない松浦星というらしかった。
平戸島もわりと広く、今回は島の中央や南部、その向こうにある生月島(橋が架かっている)までをまわる時間はなかった。なにしろ長崎市内から90km以上離れている。一度くらい一泊してゆっくり巡りたいとおもいつつ、毎度日帰りばかりである。
生月には二度行ったことがあるのだけれど、ちょっと苦手なところがある。土地のもつ空気が少し変わっている。生月島に山田教会というのがあって、ここの堂内には蝶の羽でつくられた装飾画が額装してあり、そういうのは私はちょっととおもう。なんでも以前着任しておられた神父さまの趣味とのことだ。
一度は母を連れて、次は宮崎の友人を連れて生月をまわったのだった。友人との訪問時には、安満岳に行こうとしたのだけど、入口でひるんで(寒かった)未訪問のままである。
行きたい場所は尽きない。
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