喫茶店百景(short version)-待合せ-
お茶の誘いをもらってにこにこと待合せ場所に向かいました。私が先に店に着いたので、「あとからもう一人来ます」と言って席をとりました。
いいですよね、こういうの。
両親が店を持っていた時代(このマガジンは主に両親の店まわりのことを書いています)、喫茶店というのは待合せ場所によく使われていたものでした。
いえ、現代でだってそういう場所なのは変わるところのないものでしょう。違っているのは、昔は携帯電話などというものがなく、店にはそういうお客からの電話がよく入ったものです。
店が混んでいて、注文が立て込んで、人の手が足りないときなんかに店の電話が鳴ると、出るように言われました。
私は史上稀にみる人見知りだったし、電話というものがすごく苦手で(受話器の向こうに知らない人がいて話しかけてくる!)、そう命じられるのがイヤでたまりませんでした。
だけど、目を三角にして注文をさばいている父や母に逆らうことなどできません。震える手とよろよろの声で応答すると、ナントカさんを呼び出してくれとか、ダレトカさんにあと10分で着くと伝えてくれとか、そういうことを言われることもありました。
大勢いる大人の中から(私がもっとも店に入り浸っていたのは保育園から中学校にあがる前くらい)ナントカさんとかダレトカさんを探し出さねばなりません。
こちこちの表情と蚊の鳴くような声で探しあて、伝えます。もう金輪際こういうことがありませんように、と毎度お祈りしていたけれど、聞き届けられなかったようで、そのうちにまたこういう不幸に見舞われるのでした。
ちなみに、決死の覚悟で出たにも関わらず、電話に出る声が小さいこと、お客さんに対し愛想がないこと(人見知りゆえ)などを両親にしかられるのでした。しくしく。
だけどいまおもうと、あのように人と人とのつながりが、目に見えないようでいて漂っている、つまりしっかりと存在していることが感じられる風景というのはいいものだったのかもしれません。
現代ではほとんど誰もが携帯電話を所有し、連絡を取り合うことができます。そういうのは急な誘いをもらって即座に会えるというすてきな環境だし、一切文句はないのですが、あのころの店をおもいだしてみると、小さな町の小さなコミュニティ的な役割を付与されていたようで、それはそれでなかなかいいものだったな。
と、そういうことをおもうのです。
うれしい誘いのおかげで、今日もとてもいい日でした。
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今日の「陶酔」:ことし初めての桃をたべました。鼻を抜けてのうみそにまでとどくほど香り高くあまい桃で、うっとりです。おいしいうちにたくさんたべなくっちゃ。