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ついきのうまで、民俗学に関する本を読んでいて、いろいろのことを考えた。ひとつに、日本人の、輪廻的、円環的な人生観というのにふと思い出したことがある。 うちの母親は色んな意味で宗教的な思想や思慮深さなどがないひとなんだけれど、たびたび私にむかってこんなことをいった。 ——つかさはわたしのばあちゃんの生まれ変わり。 つまり私にとってはひいばあちゃんである。誕生日が同じなんだそうで、きょうだいのなかで私だけひいばあちゃんに抱かせられなかったのを残念がりつつ、こういうこと
あることのために読んだ短編集で梅崎春生の「赤帯の話」に出合った。このひとの作品を読んだおぼえはないから、まあはじめましてといっていいとおもう(恥ずかしながら)。これはシベリア抑留民の一場面を描いた短い話である。赤帯というのは抑留民のうちのある班の親方であるソ連兵のことで、あだ名である。 この短い話は、冒頭と最後の場面で夢の話が出てくる。情景の描写には色の表現がよく出てくる。そんなふうなことを感じながら読んだ。 主人公(「私」という日本人)は、空腹を抱えてくりかえし、食
事務所のそばには美術館があって、その美術館には屋上庭園があります。事務所の窓から見えるその場所に、そういえば上ったことがないことに先日気がつきました。 ある日の午後、散歩のつもりで上ってみて、眺めがいいことと人の少ないのに気分がよくなりました。 * 再読となる遠藤周作氏の著作『王の挽歌』を読み終えました。大友義鎮(宗麟)を主人公にした作品です。 作品のなかで、ところどころ大友宗麟の、亡母にたいする心情が描かれていたり、謀反人服部右京亮の妻をもてあそぶ自分の内にあ
出島オランダ商館まわりのことを知る以前は、その歴史にあまり興味をもってはいなかった。 吉村昭氏の『磔』に収録された「三色旗」、同著者の『ふぉん・しいほるとの娘 上・下』の2作品をもらって読んだことで、少しずつその当時の、出島でのオランダとの貿易(ポルトガルとの貿易当時のことはもっと不勉強)、その他の異国との交流などについて知るのが楽しくなってきた。 たとえばキリシタン史なんかをみていくなかでも、当時は交易国でなかったフランスやイギリスといった国から見たオランダ人に関す
ちょっと前に、吉村昭氏の小説『ふぉん・しいほるとの娘』を読んだ。タイトルから察せられるかとおもうが、ドイツ人医師Philipp Franz Balthasar von Sieboldの娘がいちおうの主人公である。 小説とはいっても、シーボルトの来日にはじまり、彼の出島における生活や江戸参府随行の様子、シーボルトの行為が原因で引き起こされた事件やその後のことを、周囲の事柄を含めてすごくよく調べて書かれている。史実にかなり近いのではないかとおもう。 長崎市の花として設定さ
『軍師二人』という司馬遼太郎氏の短編集を読んだ。戦国の時代の武将たちと、それをとりまくおんなたちの様子が、どこかのんびりと描かれている。肩が凝らずにすんなり読めた。 おんなというのはやかましく、せからしいものであることを再確認しつつ、しかし同時に、どうにも可愛げのある生きものなのかもしれないなあ、とか考えた。 河合隼雄氏の著作に、どこかの原住民に伝わる民話が紹介されていたのを思いだした。 日常におんながいるのをうるさがって、別々に暮らそうとおとこたちが言い出し、お
帚木蓬生というひとの書いた本、『信仰と医学 聖地ルルドをめぐる省察』を読んだ。彼の著作についてはKさんからおすすめをされていたものの、まだ他の小説群を読む前に、たまたま書店で見つけたこの本から読んだ。 著者は精神科医でもあって(現在その職からは退いている)、ルルドについては訪問し現地を見たうえで、その歴史を調べて概要を書きだし、さらに医学の観点から意見や考えを述べた構成になっている。 聖母出現の当事者、Bernadette Soubirousというと、これも以前Kさん
広島と長崎に原子爆弾が投下され、それに続く終戦が近付いた周辺には、そういうところにいくらかでも意識がいくものである。誰しもがいくらかはそういうものであるかもしれない。 ところでそれというのは、無意識下でも影響があるのだろうか、このごろ読んでいる本のなかで、おもいがけず印象深いものがあった。 『主の道を歩む人』というタイトルのその本は、長崎大司教区の司祭として大浦天主堂の主任司祭をしていた中島政利神父が書いたもので、現在ある文章のために借りてきた資料のうちの一冊である。
1枚のジャズアルバムから、参加しているメンバーをたどって他のアルバムをはしごして聴く、とかいうことをやっていると、ときたまとても気に入る曲なり、演奏なりに出合うことがある。そしてどういうわけだか、その音なのか、メロディなのか、リズムなのか、とにかくそれのどこだかにグッとやられてしまって、何度も何度も聴きたくなってしまう。そういうふうになることがある。 最近はあまり聴かなくなった、ロックバンドみたいなのでだって同じようなことがあったし、クラシック音楽でも、まあそれがどんなジ
いま従事していることの一つに、ある施設の指定管理の業務がある。先日、そこで案内役や来訪者対応に就いている者から、かなり興奮した様子を含んだ報告があった。Oさんとする。 その施設を含む複数の建物は現在観光施設及び博物館として公開されているため、いちおうの順路を設けてある。順路を示すものは矢印と文字による看板だったり、便宜的にベルトパーテーションなどを利用したものだったりする。 そういう順路案内みたいなものはときどき、こちらの心づもりと見た人の受け取りかたにちょっとしたずれ
コーランに関する本を読んでいて、まだ取りかかりのはじめのほうなのだけれど、慈悲のことを書いてあったところが私の興味をひいた。『コーラン』の入り口と言える、七節からなる「開扉」の章のところに出てくる、<Bismillāhi r-raḥmāni r-raḥīm>ここを著者は「慈悲ふかく慈悲あまねきアッラーの御名において」と訳し慎重にその理解や捉えかたについて丁寧に講話していく。 (よく知らずに読みはじめたけれど、この本は岩波市民セミナーが元になっているようです) 著者は、
いったん読みかけて途中で読むのをやめていた本があった。人から勧められたもので、島原と天草の一揆をとりあげた小説だった。 1637年の陰暦5月から、1638年の陰暦2月28日のおよそ10ヶ月間くらいのことと、その前後のちょっとしたエピソードで700頁。 前回途中でやめたのは、書き込みすぎていて疲れちゃったからだった。でもそのときよりいくらかは歴史に興味もわいているし、評価のいいレビューもあるようだし、私もちょっと大人になったから(?)今度こそとおもったのだ。 おもったけ
ジャンヌ・ダルクに関する本を読んだ。先に、そのあたりのことを描いた漫画作品を読ませてもらって、そのあと500頁以上ある分厚い文庫本という順番だった。 その時代におけるヨーロッパの領土まわりをめぐる争いというのは事情がこみいりすぎていて、文庫本のほうではわりと詳しく書いてくれているにも関わらず、なにしろ私の頭がにぶくて整理が追いつかないままでいる。とりあえずそっちはすっとばしてジャンヌ・ダルクに注目をしてみる。 彼女が異端として裁判にかけられ、処刑後になって復権裁判や列聖
『ユングの生涯(河合隼雄著)』という本を読んでいることをちょっと前に書いたんだけれど、それを読み終って、読みかけだった『人生は廻る輪のように(エリザベス・キューブラー=ロス著)』にまた戻った。この本を読むのは2度目なのだけれど、常に新鮮な気もちで生きている私には(つまり内容を忘れていたということ)また新たに感ずるところがある。この2冊を続けて読みたくなった理由は、『ユングの生涯』のはじめに、彼が生まれ育ったスイスという国の土壌についての章があり、ロスもスイスの生まれというの