出島商館長ヘンドリック・ドゥーフの苦悩
出島オランダ商館まわりのことを知る以前は、その歴史にあまり興味をもってはいなかった。
吉村昭氏の『磔』に収録された「三色旗」、同著者の『ふぉん・しいほるとの娘 上・下』の2作品をもらって読んだことで、少しずつその当時の、出島でのオランダとの貿易(ポルトガルとの貿易当時のことはもっと不勉強)、その他の異国との交流などについて知るのが楽しくなってきた。
たとえばキリシタン史なんかをみていくなかでも、当時は交易国でなかったフランスやイギリスといった国から見たオランダ人に関する記述なんかがひょこっと出てくることがある。日本側でもオランダ側でもないその視点を得ることで俯瞰的な視点が持てておもしろい。
出島は小さな敷地である(3,696坪の敷地に60棟余の建物)。その中に商館長以下商館員たちの居宅があり、倉庫や日本側の役人用建物などがあった。
オランダ人は、出島の外に出ることは許されず、狭い敷地の中で過ごさねばならなかった。その生活というのは、大変きゅうくつなものだったという。
じっさい、出島(復元)の中に入って歩いてみても「歩き回る」というほどですらない広さである。ちょっと歩くとすぐに島のどこかの端っこにあたる。
商館長の任期などはだいたい5年くらいというけれど、そんな期間をあのささやかな居住区で過ごさなければならないなんて、想像するとふるえてしまう。
そんな極端に制限された生活状況にもかかわらず、長崎奉行や江戸幕府の前で膝やひたいをすりつける屈辱的な態度をとってまで貿易をおこなうオランダ人を、他国人はみじめだなどと言ってあざ笑っていたらしいのである(パリ外国宣教会の司祭たちでさえそういう目で見ていたというのだから)。その気もちわからないでもない。
こういうことは、たとえば出島のパンフレットやウェブサイトには載っていない。しかしこういう部分こそおもしろいじゃないかと私なんかはおもうのだ。
国を閉ざしていた日本の中で、長崎だけはオランダと交易で栄え、華々しい時代をおくりました、みたいな文言にはいっこうに心をかきたてられない。
前置き(?)が長くなったけれど、まず上述の「三色旗」で知ったフェートン号事件に登場する、当時の商館長Hendrik Doeffについての別の話題から。
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1807(文化4)年に長崎出島のオランダ商館長の立場にあったヘンドリック・ドゥーフは、長崎奉行から一通のフランス語の書面を渡され、そのオランダ語訳を求められた。(長崎奉行はフランス語の書面であるとは知らなかった)
奉行が依頼した通詞たちは一人もそれを解読することができず、困り果ててドゥーフのところに依頼してきたのだ。
日付も差出人も書かれていないこの書面を読み終えたドゥーフは、その内容に仰天して、そのままオランダ語に訳すことをためらった。
内容は以下のようなものであった。
この書面は外交文書の通例に則り正式文書の訳文として付されたもので、これと別にロシア語、満州語、日本語訳文が添えられていた。
日本語の訳文は、最初にこれを受け取った松前奉行が判読しかねるほど稚拙な文章で、無学な日本人(源七という番人)に口述させたものだったという。ここへの紹介はしないけれど、それはとても難解な文章であった。
ドゥーフは原文のまま訳出するか迷った。その理由は、その結果日本人の感情を刺激し、不慮の事態が引き起こされ、あげく自身もそれに巻き込まれてしまうことを恐れたのである。
ドゥーフはオランダ語に訳するさい、文意は変えずに語句を穏当にし、調子を穏やかに改めた。ドゥーフのオランダ語訳文を、通詞が日本語文に訳した。
ドゥーフの配慮にもかかわらず、日本語に訳出された文章の内容を知った長崎奉行の驚きは大きく、長崎奉行の成瀬因幡守正定は直ちに江戸に使いを送った。その通報を受けた幕府の驚愕もまた多大であったらしい。
しかしながら、文中に出てくる「先年」の出来事を考えれば、これは特段驚くようなことでもなかった。
1804(文化元)年9月26日のNikolai Petrovich Rezanov以下ロシア帝国使節団が長崎に来航した。彼らは日本人漂流民3名を伴っており、国務大臣のレザノフが持参した紹介状に書かれた要望を、長崎奉行・成瀬正定は慎重に、かつ厳しい態度で拒否したという。
要望書には、漂流民を護送すること、日本との修好を求めること、通商による利について述べられており、敵意を示すような記述はなかったにも関わらず、日本側の態度は乗務員の上陸を一切禁じ、武器の提出まで求める極めて強硬なものだったという。交渉を重ねるも努力空しく、ロシア側は成果を得られず帰国した。
詳しく紹介するととんでもない字数になるからやらないけど、これに先立ってもロシア帝国からの通商申し入れがあり、その際もロシア帝国側の態度は友好的そのものだったものの、失敗に終っている。
日本の、異国に対する警戒心というのは徹底している、ということがよくわかるような出来事(のひとつ)だった。
このあと、1806年にこのレザノフによってフヴォストフ事件(文化露寇)というのが起こっている。
「三色旗」で主題に取り上げられているフェートン号事件は、最初にあげたフランス語文によるロシア側の忠告(?)の翌年、1808年に起こっている。フェートン号事件のときといい、このドゥーフという人はむずかしい局面によく出合う人物である。
これらの事件でフランス語文書が提出されたことにより、日本側はフランス語の国際外交用語としての役割と重要性を思い知り、長崎の通詞たちはフランス語学習の必要性を感じた。通詞たちは長崎奉行にそのことを願い出、長崎奉行はその許可を幕府に求めた。通詞たちはドゥーフに付いてフランス語の学習をはじめることとなった。
長崎の通詞たちはオランダ語に通じていたため、ドゥーフはオランダ人の間で用いられていたフランス語とオランダ語の慣用書を教材に使った。のちに、日本初のフランス語辞書『払郎察辞範』がドゥーフ主導で編纂された。
1811年以降からは蘭和対訳辞書編纂にも着手し、1816年に最初の3冊を幕府に献上している(『ドゥーフ・ハルマ』または『長崎ハルマ』などとも)。
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商館長の任期は5年前後というところ、フランス革命のおかげで祖国を失うなどしたことにより、ドゥーフの日本滞在は17年という長期間であった。本国が消滅した状態では貿易船が入ってくるはずもなく、したがって彼らは日常品にもずいぶん困ったようである。
新品の衣服などもずいぶん長い間届かずに、ほつれた衣服で過ごしていたらしい、という、そういうちょっとみじめだった様子なんかを気軽に書くはずが、思いもよらず長文になってしまった。
来日時22歳であったドゥーフも、他の商館長・商館員やシーボルト同様に遊女と交遊し、子どもをもうけたりしている。
シーボルトとおたきさんのことと合わせてそこらへんのことも書くつもりだったけれど、またの機会にする。
フェートン号事件とその他の記事
シーボルトの記事
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今日の「よりみち」:他のところ用に書きたい文章のために調べものをしていて、その途中でこんな話題によそ見してしまうわるい癖があります(反省)。