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あたたかさのなかに滲み出る狂気と狂気を孕んだあたたかさが共存しているせかい

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読書記録 2024年2月
「とわの庭」/小川糸

自分がいま見ているものは「確か」なものなのか、それとも視覚以外で受け取ったものが「確か」なものなのか、そもそも「感覚」とか「確か/不確か」って何なんだろう、というのをキーワードに読みすすめる。

主人公は盲目で、一般的な社会で存在する時の流れがわからない。自分の誕生日すらも、自分が何歳なのかもわからない。ただ、毎朝の鳥の歌声ととある人物の毎週の訪問だけがよすがになり、そのときだけは社会性のある時という概念に接することができる。
その少女の人生は、目が見えない、時の流れがわからない代わりに、愛する母が作るパンケーキのにおい、自分の居場所である庭にある木々と草花の香り、大切な人たちの花束のような香りなど、嗅覚とともに人生を歩んでいく。

そして物語のなかで、あんなに愛し愛されていたはずの母との関係が徐々にあらわになり、虐待の雰囲気を孕み、のちに破綻する。
(直接的な虐待シーンもあるが、あのシーンのあの言動って物語を進めていくうちにもう一度考えたら狂気的だな、なんていう伏線的な語りがあって、それも上手。小川糸さんのいろんな才能がわかる作品。)

しかし、母子関係が破綻し、時の流れも知る術がなくなった孤独なせかいを救う救いの手が差し伸べられる。
そのあたたかな手は友人や、人生のパートナーになる1匹の犬、あの夏に出会った初恋の人。
時の流れに代わる、その点と点の思い出が「星座」として彼女の人生の夜空に美しいかたちを結ぶ。



わたしは大切な人の表情が見えるし、幼い頃は好きな色でぬり絵をして遊んだし二十歳を迎えた今も美術館に行って絵画や彫刻を楽しむこともある、音楽を聴いて人と繋がり、この曲やあの曲を好きだ嫌いだなんて語ったり、外に出れば風のやさしさや不機嫌さも感じることができるし、好きな香水に出会ったら身につけてお守りにすることだってある。身体的に不自由だと思うことは今までの人生でなかった。
そのことを当然と思っていたことに気づいた。目の見えない人や音の聞こえない人をかわいそうだと思ったときもあった。でも、それって本当にかわいそうなのか。身体が不自由だから自由がないと安易に結びつけることは正義なのか?身体の一部が不自由だからこそ、私たちがふだん当たり前だと思ってしまうことに対してありがたさや感動の気持ちを抱けたり、もしかしたら目が見えなくてもその嗅覚だけに集中して、大切な人の香りがわかったり、そんな神さまからの贈り物だってあるのかもしれない。だから安易に結びつけることの正義やこうだからこうって一筋縄でくくりつけることに対する疑問が浮かぶ。
主人公は白状を使っている時は歩くことはひとつの手段としてあるものだったけれど、相棒の盲導犬と出会ってからふたりで歩くこと自体がに喜びを感じるようになったと語っていたから、もちろん目が見えないということで歩くのが怖い時には寄り添ってあげたいと思うけれど、不自由だからこそ感じることのできる「自由」を妨げるのは違うのではないか、という話。

相棒と歩くことを通して、散歩道でたくさんの香りを感じて世界が広がって、暗い過去も赦していくことができるストーリーに感動でした。

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