アンドリュー・ヘイ『異人たち』
2024年5月末日、渋谷のシネマクアントでアンドリュー・ヘイの『異人たち』を観た。原作は1987年に出版された山田太一の『異人たちとの夏』
生まれる前の日本の小説が今になってイギリス人の監督にリメイクされたもの。原作を読んだことはないが、誘われて観にいくことにした。
主人公アダムはロンドンの高層マンションに住む中年男性。作家を生業としており、幼い頃に死んだ両親についての小説を書いていたが、まったく筆が進まないようだった。カオマンガイを食べた後に視聴したため、ゆっくりと流れるスクリーンの風景に眠気がさしかかっていた。唐突に聞き慣れない火災報知機の音が鳴り響く。日本では聞くことのできない強烈な注意喚起の怒号は眠気を一瞬にして食べてしまった。聞き慣れない音は緊張感をもたらすとともに、舞台が遠く離れた異国であることを再確認させた。
同じマンションに住む酒浸りのハリーが登場する。日本のウイスキーが好きだと酔った彼は主人公に迫る。一度はアダムに追い帰されるが、遂に部屋に入ることを許され、二人の関係は心身ともに近づいてゆく。孤独を感じている二人の男性はスクリーンの中で孤独を埋めるように、お互いの身体を貪る。行為が終わり、幼少期の話を打ち明けるようになる。
アダムの両親は交通事故で12になる彼を残して天に昇った。アダムはこれを悲しむと同時に、過去の両親との対話を始める。その中には、自身がクィアである告白が中心だった。まだLGBTに理解が薄かった両親に性自認を打ち明ける様子は心苦しかった。印象に残っているのは父親との対話。父は「クラスにお前のような奴がいたらきっといじめていただろう」と語る。アダムも実際に性自認が発端となりイジメられていたことを打ち明ける。父は知っていたがどうにもできなかったことを悔い、「今(アダムが大人になった現代)は大丈夫なのか?」と問いかける。時代は進み、昔ほどの偏見や嫌悪はないと主張する。しかしアダムは子どものように泣き、その様子から父は我が子の孤独を垣間見る。たしかに時代は変わったはずだが、まだ十分ではないとはっきりと伝わってくる。実際に彼は、高層マンションで優雅に暮らしているように見えても、いつまでたっても独り。やっと理解者でありゲイであるハリーが友人、それ以上の関係に進めただけだった。父に、初めて理解し合えた人間ハリーを会わせようとするが、妄想上の亡くなった両親に現在を生きる人間を会わせることはできない。
両親に全てを打ち明け、同じ高層マンションに住むハリーのもとに帰るが、ハリーの部屋には腐敗しきった遺体が転がっていた。振り向くとハリーが「なぜ扉を開けてしまったのか」と問い詰める。遺体はハリー自身だった。孤独死を匂わせる遺体は、観客にとって衝撃的であまりにも残酷だった。LGBTに理解が進んだ現在でさえ、ハリーは孤独に酒を浴び、死ぬほかに選択肢がなかったのだ。アダムは遺体ではなくハリーの魂(ここは私の解釈)を抱きしめてエンディングに向かう。
物語冒頭の火災報知機は、ハリーの練炭自殺を示唆していると解釈した。あるいは明示されていない後のアダムの死を観客に知らせるものだろうか。どちらにしろ、アダムには隣人はおらず、一人ぼっちで孤独を抱えているように見えた。時代が進んだ今でもストレート以外の自認はどこか遠くの異人として扱われ、触れにくいものとしてあるのかもしれない。
原作はLGBTにふれるものではなく、アンドリュー・ヘイ監督が加えた設定であると後に知った。アダムが両親に会いに行くかつての古びた家は、監督自身の実家というこだわりに感嘆した。自分自身ゲイであることを公表している監督も孤独の渦中に住んでいるのだろうか。ゲイであるアダムとハリーを『異人』とし、自己を投影させたようにみえる。スクリーンを終始埋め尽くした陰湿な雰囲気はイギリスの風景ではなく、監督の心のうちにかかる靄を見たようだ。今作ではLGBTの孤独を描いているが、ストレートの観客にも生きていくうちの孤独感を確認させるような作品だった。『人は簡単に自暴自棄になれる』このセリフに全てが詰まっている。異人が隣人になれる日は近そうに見えて遠く、誰しもが孤独を抱えて生きるしかないマンションの風景にため息が漏れた。