VIDEOPHOBIAの奇妙さ

宮崎大祐監督作品『VIDEOPHOBIA』は事前情報を仕入れて鑑賞すると、一層奇妙な映画に映る。
私も公開時に注目していて、見に行きたいと思いつつ見れなかったので先日U-NEXTで鑑賞した。
それなりにあらすじも知っており、予告編を見ていた。
鑑賞者が知るべきとされるその手の情報を仕入れると大体その映画がどのような映画かは分かるものである。それが分かるのに映画ファンかどうかに関係ない。広告はイメージ戦略であり、予告編やあらすじ、あるいは監督のインタビューといったメディアは映画が前もって伝えたいイメージを届けるものだからである。
私が鑑賞前にこの作品に抱いていたイメージはサイコスリラーとかパラノイア的ホラーとかそういうものだった。『反撥』と『ガス燈』とか『パーフェクトブルー』とかその辺りの映画である。

結論から言えば、その予想は裏切られるものであった。その裏切りに抱いた感情はと言えば、良いとか悪いとか衝撃とかというものでなくもっと淡々としたものである。
淡々とした映画である、というのがこの映画を見てまずの感想である。
私が先に挙げた予想作品たちであれば、主観的にその恐怖や感性的倒錯が描かれる。
しかし、この作品では意外にもそのような表現が全くないわけではないにせよ、少なく感じられる。それはこの映画が客観的に撮られているからである。
この映画は主人公と同じように世界を見よ、とは言わなければ共感しろとも言わない。

ところで私の予想と異なり、この映画で大きなウェイトを占めていたのが演技と顔というテーマである。
序盤に演技のワークショップが描かれるがそれだけでなく、着ぐるみ、パック、被害者たちのセミナー(?)、そして警官に告げられる、違う人に見えたというような一言。
ここでは二つのことが描かれている。それは自分ではない誰かになるという問題と自分であるにも関わらず別の人と思われるという問題である。
モノクロで撮られた大阪も一役買っていようが何か日常的なものと非日常的なものとが混濁していく様子が撮られる。
演技のワークショップでは誰かになりきれない男性がキレる瞬間が描かれているが、講師の男性はキレたことを一皮剥けたなどと褒めることなく、ただただ狼狽えるばかりである。
これが予定調和、権力の勾配を崩すことであったことは言うまでもない。だが、作中で描かれたような流れにならなかった可能性もある。一つは講師が褒める可能性、もう一つはキレる演技をしていたと男性がネタバレする可能性。前者は関係性を保存し、後者は関係性がいつでも容易に崩れるものであることを示唆した上で保存する。
もちろん作中ではどちらでもなくただ男性がキレて講師が狼狽えたという事実があるのみである。

この映画が客観的である必要があったのは演技を撮るためだろう。この映画はジャンル映画と通常呼ばれるものほどには鑑賞者に刺激を与えてこない。このように見ろとは言ってこない。
この映画では主人公の彼女が感じている恐怖やそもそも感情といったものが見えづらい。行動に対して動機が見えづらい。抑えた演技をしていると言われればそれまでだが、むしろ感情が見えないように装っているのだと解釈したい。

この映画は装われた女性を淡々とした日常に映すことによってジャンルものとしての違和感を生み出しているのだ。

だとすればVIDEOPHOBIA=ビデオ恐怖症というタイトルは映画やビデオを刺激を求めて嬉々として見てしまう私たち観客への当てつけなのかもしれない。


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