SENTIMENTALISM
萩原朔太郎の「SENTIMENTALISM」を読んでくれ。
朔太郎はここで神秘主義的なことを書いている。
神とは詩である。多くの場合、感傷には理性がともなう。哲学者はその思想において、ときに詩のようなものを書くが、形骸ばかりで死んでいる。ここには生命も感動もない。理性が理性として在る場合、それは哲学であって、詩ではない。詩は感傷の涅槃においてのみ生まれる。そこには観念も、思想も、概念も、象徴のための象徴も、芸術のための芸術もない。ただの〈光〉だ。芸術の生命は〈光〉である。
まとめるとこうなる。
詩は直感によりある真実を探り当てる。それは超自然的な体験に限りなく接近するだろう。
芸術家はときにドラッグを用いる。トリップ。それは超自然的な体験のように思える。
宗教はときに儀式により神を見させる。まさに超自然的な体験だ。
だがこれらは、脳の機能のひとつである。ありふれた現象だ。
詩は、この神秘ではない別の神秘を探り出そうとする試みだ。脳の誤謬ではないもの。それが〈光〉である。
この〈光〉を投げかけるために、朔太郎は〈感傷〉を必要とした。この感傷は詩人が言うものであるから、辞書に書いてあるように、数え切れる言葉で言い表せるものではない。
しかし〈光〉は我々の時代でも、あまり受け入れてもらえない。〈光〉に至っていないからか? そうかもしれない。しかし〈光〉に至ろうと試行するものとして受け入れてくれてもいいだろう、と思う。
the pillowsが「Instant Music」で歌うように、インスタント・ミュージック(つまりインスタントな芸術)が溢れている。おれたちはそれに溺れている。おれたちはそのことを嘆くことしかできない。
東浩紀も『動物化するポストモダン』において、〈意味〉への渇望は、即物的なものを摂取しただ満たす、というサイクルに取って代わるしかなかった、といった。
このように賢い人やすばらしい芸術家たちの絶望が見え隠れすることはとても悲しい。
おれは、悲しみや孤独がすばらしいものを生みだす、と信じる。
これがただの慰めにしかならないようであれば、それは終わったときだ。終わるな。