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「甘え」について考える:④甘えの行動と身内・他人

「甘えから起こす行動」を自分なりに考えてみたとき、「相手に取り入ることによって、自力でできることをあえて相手にやらせる」というシーンを私はイメージした。「相手にやらせる」というのは「相手に頼む」ということである。

ここで「取り入る」「頼む」について詳しく見ていきたい。
「取り入る」は相手の機嫌をとることによって自分の欲望を達することであり、相手に甘えさせると見せかけて自分の甘えを実現している。「頼む」は相手が自分の要望を受け入れてくれるという期待、つまり相手の好意を期待して委ねることであり、まさしく「甘え」が背後にあると言えるだろう。

ここで「遠慮」について考えてみると、人間関係に親しみが増すにつれて「遠慮」は減り、逆に疎遠であるほど「遠慮」は増す。親しい友人間や家族間においては遠慮は少ない。だが初対面の人や親交の浅い人には遠慮する。
自分に対して好意があるかわからない相手(疎遠な人)の場合、こちらが遠慮しないと相手に嫌われはしないかと危惧して遠慮するのである。このように「遠慮する」ことは窮屈な心理状態である。

遠慮の有無は人間関係の「内」と「外」を区別する目安となる。身内には遠慮がなく、義理の人間関係には遠慮がある。
ただし、まったく人間関係のない「他人」に対しては「内」と同様、遠慮がなくなることがある。この場合、身内に対する無遠慮が相手の好意をあてにした「甘え」のために無遠慮であるのに対し、相手が自分から遠くにいて、自分に対して脅威を与えないために無遠慮なのである。
これが一転して自分の脅威であるとわかると、相手に「取り入る」態度をとる。
なお、「相手の好意を前提としている」=「相手が脅威ではないとわかっている」と解することができる点で、両者は結局は同じ心理からの行動と考えることができる。

「とりいる」ことは同時に「とりこむ」ことでもあり、精神分析で同一化ないし摂取と呼ばれる心理機構に当たる。「とりいる」ことで相手を自分の内に「とりこみ」、同一化して味方にし、脅威を排除するのだ。
これは個人の人間関係に限った話ではない。過去に日本が外来文化と接触した時の反応とも相通じている。中国文化にせよ南蛮文化にせよ西洋文化にせよ、常に同じパターンで外来文化を摂取してきたということができる。

日本文化の代名詞ともいえる同調圧力や“察する”文化も、こうした「内外」「甘え」という視点から見てみると、また興味深い。
同調圧力は脅威に対する怯えとそこからの自己防衛だ。同調圧力を振りかざし、自分の考えを押し付けてくるような人は、相手を自分にとって脅威だと思っているに違いない。オセロのように相手を自分と同じ色にして安心したいのだ。
察するというのも「この人ならわかってくれるだろう」という甘え、試し、駆け引きである。言わずとも察してくれる人は「内」として親しい関係になっていく。だがそれが叶わなかったとき、「内」にいた相手は「外」の者となり、脅威として排除対象となる。ここで「とりいる」方法での排除であればいいが、威嚇や攻撃となれば人間関係は破綻する。

今回の最後に、参考文献としている土居健郎『「甘え」の構造』において私が一番膝を打った部分を引用しておきたい。

[...]従来漠然と日本精神とか大和魂といわれたり、あるいはもっと具体的に尊皇思想とか天皇制のイデオロギーといわれているものが、実は甘えのイデオロギーとして解し得ることに、確信を持つに至ったのである。
[...]依存度からすれば天皇はまさに赤ん坊と同じ状態にありながら、身分からすれば日本最高であるということは、日本において幼児的依存が尊重されていることを示す証拠とはいえないであろうか。天皇に限らず日本の社会ですべて上に立つ者は、周囲からいわば盛り立てられなければならないという事実が存するが、これも同じような原則を暗示するものである。いいかえれば、幼児的依存を純粋に体現できる者こそ日本の社会で上に立つ資格があることになる。

強烈な皮肉とも捉えられる内容だが、完全に不定できない、どこか思い当たる節があるとは言えないだろうか。特に会社組織に属している人にとっては。
上司は部下がいなければ上司であることはできない。社長は従業員がいなければ社長であることはできない(1人で会社を回して社長兼従業員という方もおられるだろうが)。その立場、身分、地位に「盛り立てて」くれる相手がいなければ成立しないのだ。部下や従業員が“察して”“動いて”くれることに甘えているのは、何より上に立つ人間ではないか?

「幼児的依存」については、次回詳しく見ていきたいと思う。

(参考:土居健郎『「甘え」の構造 [増補普及版]』)

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