「甘え」について考える:③甘えの発生
前置きが長くなったが、本題の「甘え」そのものについて考えていきたい。
まずは「甘え」はどのように発生するのだろうか。
「甘え」は本来、親しい二者間の関係を前提とする。例えば親子関係、夫婦関係、師弟関係、親しい友人同士などがそれに当たる。このような二者関係において一方が他方に甘えるというわけである。もちろんお互いに甘えるということもありうる。
「甘え」が発生するとき、甘える側は相手が自分に対し好意を持っていることがわかっている。この「わかっている」というのは、頭でわかっているというより、経験的に“身に覚えがある”状態である。このため「甘え」は本人が気付かぬうちに発生することがある。
実際誰かに甘えているときに、甘える側は相手が自分に対し好意があると「わかって」いるのだろうか。自分を嫌っている、もしくは無関心である相手に対しては「甘え」は発生しないのだろうか。
「甘え」が無自覚的に発生するものである以上、自分が甘えているのか甘えていないのかに気付くことは難しい。自分以外の誰かから指摘されたときにしか、それには気付けない可能性が高い。
私自身が会社で「甘えている」と言われたときのことを思い出してみると、まさに私は無自覚であり、指摘されて初めて己を省みた。このとき私は何に対して甘えていたのだろうか。誰からの好意を「わかって」いて、それに甘えたのだろう。
「甘えている」と指摘されたとき、相手が言いたかったことは「“会社”や“社会”に対して甘えるな」という意味だったように思う。そしてこの場合の「甘えるな」とは「甘ったれるな」という意味だろう。
「甘ったれ」は好意の有無が前提ではない。甘ったれる側が、相手が自分に対し好意を持っていると思いたいという意図のもと、「甘える」ふりをすることだ。
「相手は私のことがきっと好きだろう」という意図を持って「甘える」のが「甘ったれ」であると言える。
これを踏まえて再び省察してみると、「甘えるな」と言った相手からすると、私は甘ったれていたのだろうという他ない。それが私からしてみれば誤解だとしても、相手にそう見えていたのだから、相手の口からそのような言葉が出るのも、さもありなんというところだ。
もう少し具体的にいうと、相手から見て私の勤務態度が「この程度なら仕事をしていると認められる、給料をもらってしかるべき」という“舐めた”態度だったのだろう。
少し話が逸れるが、このような認識のズレはいつどこにでも起こりうる。
自分はこういうつもりでも相手は違う形で受け取った、というのはコミュニケーションにおいてはよくあることだ。
しかしそこで一方的に怒ったり、関係を絶ってしまうこと、コミュニケーションを遮断してしまうことこそ、一番の悲劇ではないだろうか。相手に腹がたっても、態度が気に食わなくても、そこで自分の世界から排除してしまったらまた同じことを繰り返すに違いない。
さて、「甘え」が二者間の関係を前提に、無自覚的に発生するものだとわかった。では「甘える」とき行動としてはどのような振る舞いをするのか、何を求め何のために「甘える」のか、引き続き考えていきたい。
(参考:土居健郎『「甘え」の構造 [増補普及版]』)